明石 一
「いつまでこんな状態が続くのだろう。いっそ都に帰るか?……いや、赦免もないのに帰っても物笑いの種になるだけだ。思い切ってもっと山奥に入って姿をくらましちゃう?……いや、ダメだ。ヒカル大将って、雨風雷が怖くて逃げ出したんだってよ!ダッサ!なんて噂になったら末代までの恥……」
考えたところでどうにもならないのだった。
夜も嵐の音で熟睡できず、眠りが浅いせいか悪夢ばかり見る。例の物の怪が、夜ごと自分を探して歩き回るのだ。顔は見えないのに、いつも同じ奴だということだけはわかる。薄気味悪いことこの上ない。
朝から晩まで雲が切れる間もなく過ぎ、手紙も、訪れる人も絶えた。
「京にいる人たちは大丈夫なのだろうか」
何も情報が入らず心配しているところに、二条院からの使者が濡れ鼠で参上した。無理をおして荒天の中危険な旅をしてきた使者は、もはや人の姿とも見えないほどにぼろぼろの状態である。普段のヒカルならば近寄るどころか、視線を向けることさえためらうような風体だったが、
「こんな中わざわざ京から……気の毒に。よくぞ来てくれた」
と手放しで歓迎し、労い、傍に置いて報告させる。手紙は紫上からだ。
「悪天候が驚くほど長く続いています。まるで空までが塞がってしまうようで、気も晴れようがありません。
須磨の浦ではどんなに激しく風が吹いていることでしょう
心配で袖も涙で濡れそぼっています」
懐かしい筆跡から悲痛な思いが立ちのぼる。愛しさに胸が一杯になり、目もくらむ心地がする。ヒカルの御前に召し出された使者は極度の疲労と緊張からか、つっかえつっかえしながら混乱する京の様子を詳細に語る。
「京でも、この暴風雨は不可解な天の啓示である、臨時の仁王会(にんのうえ)を催すべきだ、などと噂しています。内裏へ通じる道が全て塞がってしまって上達部がたも参上できず、政事も途絶えています」
「長雨はこの季節よくあることですが、これほど強い雨風が何日も続くことはなかったので、皆ただ事ではないと驚き騒いでおります。地の底まで貫きそうなひょうが降ったり、雷がひっきりなしに鳴り続けたり、まことに、このような酷い天候は初めてでございます」
本気で怯えている様子の使者に、改めて背筋を寒くする一同だった。
京の都すら尋常でない有様と知り、本当にこの世が終わるのではないかと皆が不安を募らせた、その翌日。明け方からいっそう酷く荒れ出した。強く吹きすさぶ風、高く満ちた潮がごうごうと打ち寄せる音は、どんな巌も山も消え失せそうな勢いだ。雷が鳴り閃くたびに「それ落ちたか!」とばかりに皆が驚き騒ぎ、右往左往する。
「一体我々がどんな悪いことをしたというんだ、こんな恐ろしい目に遭うなんて」「父に、母に逢いたい」「いとしい妻や子の顔が見たい」「こんなところで死ぬのはいやだ」
泣き喚く供人たちの中で、ただヒカルだけは強気に構えていた。
「私には、こんな辺境の渚でむざむざ命を落とすほどの咎など無いはずだ」
が、騒ぎがあまりに止まないので、神に向い様々な幣帛を奉り、数多の大願を立てた。
「住吉の神よ、この近辺を静め守りたもう神よ、まことこの世に姿を現す神ならば、我らを助けたまえ」
その力強い声と姿に心を奮い起こされた幾人かが、
「そうだ、我らの命はともかく、このような尊いお方を嵐なぞで死なせるわけにはいかない!」「我々の身に代えてこの御身一つを救いたてまつらん!」
と声を響かせ、残りの者も続いた。
「帝王の深き宮で生まれ育ち、様々な享楽にふけるも、その深き慈しみは大八州にあまねく、沈む輩を多く引き立ててた」
「今、何の報いか、この横ざまにたたきつける波風に溺れんとす。天よ地よ、そこに理はあるか。罪なくして罪に当たり、官位を取られ、家を離れ、都を去り、明け暮れ安らかな空なく嘆きながら、更にこのような難儀に遭い、命尽きようとせんとは、前世の報いか、現世で何ぞ罪を犯したか。神仏が確かにあらせられるなら、この災厄を鎮めたまえ」
全員揃って住吉の社を拝し、声を上げた。
さらに海龍王や他の神々に願を立てたところ、ひときわ大きな閃光と轟音が同時に襲った。海側に突き出した渡殿が火を噴き、燃え上がって、あっというまに焼け落ちてしまった。皆一気にパニックに陥り、海から遠い裏側の大炊殿(おおいどの)に逃げ込んだ。もはや身分の上下を気にしている場合ではない。狭い所で押し合いへし合いしながら泣きわめき、叫ぶ声は雷鳴もしのぐほどだった。空は墨をすったように真っ黒なまま、その日は暮れた。
風も雨も徐々に収まり、やがて止んだ。何日ぶりだろうか、夜空に星が輝きはじめた。
「ヒカルさまの御座所どうする?さすがに狭すぎて作れなくね?」「皆と雑魚寝は畏れ多いよね」「元の部屋がある寝殿、建物は無傷なんだからあちらに移ったら?」「いや無理……廊下無いし、地面は大勢で踏み荒らしたから泥でグッチャグチャ。御簾とかお道具とかも全部吹き飛んじゃった」「明るくなったらにしよう、危ないから」
すっかり落ち着いた様子の供人たちが、ああだこうだと後始末を算段している間、ヒカルはひとり念誦しながら思いを巡らす。平静を装ってはいるが、心中はまだ波立っていた。
月が昇った。柴の戸を押し開けると、潮がすぐ近くまで満ちた跡があらわに残っている。まだ嵐の名残ある荒波を眺めながら、つくづくとこの異変は何だったのか、誰か解き明かしてくれないものかと考える。
大炊殿の周りに、みすぼらしい海人たちが寄り集まっている。建物もしっかりしていて人も多いこの場所に避難してきたらしい。地元の言葉で判然とはしないが、
「この風がもう少し長く続いていたら、潮がもっと高く上って全てをさらってしまったろう。神のご加護は相当なものだった」
などと言っている。ヒカルは身震いしながら詠む。
「海に鎮座する神のご加護がなくば
潮の渦巻く遙か沖合に流されていただろう」
昼日中激しく煎り揉みしていた雷と火事騒ぎで、張りつめ続けていたヒカルは疲れ切っていた。狭い大炊殿に申し訳程度にしつらえられた粗末な御座所で、柱に寄りかかりながらついうとうとする。
誰かが呼んでいる。懐かしい声、この声は……
「なぜ、このような見苦しい場所にいるのだ」
亡き父、桐壺院であった。生きていた時とまるで変わらぬ姿で目の前に現れて、ヒカルの手を取り立ち上がらせる。
「住吉の神のお導きに従い、疾く舟を出しこの須磨の浦を去れ」
ヒカルは嬉しくなって応える。
「なんと、畏れ多い……父君の現身にお別れ申して以来、さまざま悲しいことばかり多くありましたので、いっそ今すぐこの渚に身を投げてしまおうかとも思っていました」
「とんでもないことだ。これはほんの軽い報いなのだよ。私は在位中に過失はなかったが、知らず知らず犯した罪を償う必要があった。だからこの世を顧みる暇がなかったのだが、お前が大変な難儀に沈んでいるのを見るに堪えず、こうして海に入り渚に上ったのだ。おかげでひどく疲れてしまったが、この際内裏にも奏上すべきことがある。急ぎ京に上るつもりだ」
故院は言い終わるや、立ち去ってしまった。
「待ってください、お供します!一緒に都へ!」
叫んだところで目が覚めた。涙に濡れた顔を上げると、辺りには人影なく、波の面に映った月がきらきらと揺れている。夢とも思えず故院の気配を探したが、空は梳いたような雲がたなびくばかりだった。
ここ数年は夢の中でも逢うことは無かった亡き父の姿を、束の間だがはっきりと見て、話までしたのだ。ヒカルは嬉しくてたまらない。
「これほどの辛酸をなめ、命も尽きようとしていた私を助けに、天翔けていらしたのだ」
あの酷かった大嵐さえ、故院を招き寄せたと思うとしみじみ有り難く、得難い経験のように感じられた。
「もっと話をすればよかった。もう一度お逢いしたい」
現実の辛さは消し飛んだ。代わりに胸が騒いで眠れない。どうしても瞼が落ちないまま、ついに夜は明けた。
参考HP「源氏物語の世界」他
<明石 二につづく>
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