おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

須磨 十二

2020年5月17日  2022年6月9日 
須磨は秋、心尽くしの風が吹く。海は少し遠いが、行平の中納言(在原業平)が「関吹き越ゆる」と詠んだ波音が夜ごとすぐ近くに聴こえ、いいようのない寂しさが募る。
※木の間より漏り来る月の影見れば心づくしの秋は来にけり(古今集・詠み人知らず)
※旅人は袂涼しくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風(続古今集羈旅-八六八 在原行平)
 秋風の関吹き越ゆるたびごとに声うちそふる須磨の浦波(忠見集-8)
 皆が寝静まる夜中、ヒカルは一人目を覚まし枕を立て、四方の嵐の音を聞く。波がすぐそこに立ち寄せて枕を浮かせる心地がして、すっかり目が冴えてしまった。琴を掻き鳴らしてみたものの、我ながら寂しさがいや増しそうな音なので止めて、歌を詠む。
「恋わびて泣く我が声にまじる波音は
 恋い慕う都の方から吹く風なのだろうか」
 やがて供の人々も目覚めて感じ入ったか、ひそかに鼻を啜る音がする。
「実のところ家来たち、どう思っているんだろう?自分ひとりのために親兄弟と離れ、それぞれの身分なりに住みなした家も出て、男ばっかりで侘しく暮らすことになっちゃって。天下のヒカル大将に仕えてコレって、まず想像もしてなかったろうに」
 さすがに気の毒に思ったヒカル、主君である自分がふさいでばかりではますます欝々しちゃうだろうと、昼間は努めて明るく振る舞うことにした。生活の不便は軽口を叩いて紛らわし、徒然にまかせとりどりの紙を継いで手習いをしたり、珍しい唐綾の屏風面に絵を描き散らしたりなどアートな趣味にいそしむ。
 かつて家来たちがヒカルに語った海山は今まさにリアル、耳で聞いただけでは決して想像できなかった磯の佇まいを次から次へと描いていく。
「ちょ、ウチの主人すごすぎ……」「絵師いたじゃん?ほら最近有名な」「ああ、千枝とか常則とか?」「ちょっと呼んでさ、色塗って貰えないかな」「遠いだろ。つか無理だべ?」「だな……」「ああー勿体ない。このクオリティが埋もれたままって」
 といいつつも彼らは、自分たちだけが味わえるこの贅沢を楽しんでもいる。何しろ、上流の中の上流貴族であり超がつく有名人かつ超人気者のヒカルに、ここまで近しく仕えることなど京ではまずありえない。その類まれなる容姿を朝昼間近に見、その優しさと心遣いを直に受ける嬉しさに、侘び住まいの憂さも吹き飛ぶというものだ。自然ヒカルの周りには人の輪が出来、常に四、五人は傍を離れなかった。
 前栽の花が色とりどりに咲き乱れ、風情ある夕暮れ時、海を見晴らす廊に出て佇むヒカル。その姿は何かに魅入られかねないほどに美しく、この世のものとも思えない。白綾の着慣れた衣に紫苑色をあわせ、濃い縹色の直衣に帯をラフに締めた格好で
「釈迦牟尼仏の弟子の……」
 とゆったり読経するその声が、さらに雰囲気を盛り上げる。
 沖を漕ぐいくつもの舟から歌声が聴こえる。まるで小さな鳥の群れが浮かんでいるようで、如何にも頼りなげに波に揺れる。連なり飛ぶ雁の声がその楫の音に重なる。白氏文集の漢詩そのままの情景を、ふと読経を止めて見入るヒカル、頬に伝うひとすじの涙をそっと袖でかき払う。黒い数珠に映える手首の白さが、故郷の妻や恋人を思う人々の心を慰める。
「初雁は恋しい人の仲間なのか
 旅の空を飛ぶ声が悲しいね」
 ヒカルが詠むと良清が応える、
「昔の事が次々懐かしく思い出されます
 雁は昔の友というわけではないにせよ」
 続いて民部大輔、
「心から常世を捨てて鳴く雁を
 雲の向こうのことだと思っていました」
 最後は前・右近将監、
「常世を出て旅の空にいる雁も
 列に遅れないでいるうちは心も慰みましょう
 友とはぐれたりしたらどんなに心細いか。自分には旅仲間がいるから平気ですが!」
 それぞれ唱和する。右近将監は官職を剥がされた後、父が常陸介として赴任する先に呼ばれたが同行せず、須磨でヒカルに仕えることを選んだ。内心忸怩たる思いを抱えているようだが、あくまで屈託なく元気に振る舞う健気な若者だった。

 煌々と差し出た月を見てはじめて今宵が十五夜だと気づき、あの管弦の催しを思い出す。それぞれ恋しい人たちも同じ空の下、同じ月を眺めているだろう。見守るは月の顔ばかり。
「二千里の外故人の心」
 と朗誦すれば、供人たちは郷愁を誘われ涙が止まらない。ヒカルは、入道の宮が春宮の元で「霧や隔つる」と詠んだ月夜を思う。あれは出家する直前のことだった。折々の思い出が切なく胸をえぐる。
「夜も更けました、中へ」
 供の者が促すが、ヒカルは動かない。
「観ている間だけはしばらく慰められる
 月の都は遙か遠くだが」
 朱雀帝とともに親しく昔話などをした夜も月が美しかった。帝の面立ちや声、何気ない仕草が故院に似ていた。
「恩賜の御衣は今此に在り」
 朗誦しつつ、ようやく寝所に入った。実際、下賜された御衣は肌身はなさず傍らに置いている。
「疎ましいとばかり一途に思うこともできず
 左右にも濡れる我が袖かな」
 あれからまだ一年と経っていないのだ。

 その頃、大弐(次官)として大宰府に赴任していた男が任期を終えて、京に戻ることとなった。一族が多く娘たちも大勢で手狭なので、北の方とは別の舟に分乗し、浦伝いに都を目指した。舟が須磨に差しかかり、殊の外美しい景観に歓声が上がる。誰からか「ヒカル大将がこの地におられるそうだ」と伝え聞いた若い娘たちは色めき立ち、そわそわし出した。ましてヒカルと交流のあった五節の君は心穏やかではない。折しも風に乗って聴こえて来た琴の音がいたく寂しく心に響き、風景とヒカルの悲運とが相まって、風流を解する者たちは皆涙した。
 太宰大弐は子の筑前守を使者として、ヒカルへ挨拶文を送る。
「遙かなる地より上ってまいりました。都に着いたら真っ先に伺ってお話など承りたく思っていましたのに、何とも意外な場所にいらっしゃる。今のお住まいをみすみす通り過ぎますこと、勿体なくもまた悲しくもございます。ただ知人や親類縁者など出迎えに多数来ておりまして、大所帯では動くに動けず、人目を避けることも難しく、残念ですが私自身がお伺いすることはできません。また日を改めて参上したく……云々」
 筑前守はヒカルが目をかけて蔵人にしてやった男だった。彼にしてみればこんな役回りをあてられてバツが悪いことこの上ない。人目も噂も気になって、文を渡せばすぐにでも立ち去りたい気満々でいた。
「都を離れて以来、昔親しかった人々と直接会うことは難しくなったけど、こうしてわざわざ立ち寄ってくれるとは嬉しいね」
 ヒカルは手放しで喜んでみせ、守をねぎらい、返信にも深い感謝の意をしたためた。
 筑前守は我が身の情けなさに恥じ入って泣く泣く帰り、父にもその旨を話した。大弐をはじめ迎えの一同も何事かというくらい泣き合った。五節の君までが文を寄越したのはその直後だ。
「琴の音に引き留められた綱手縄のように
 たゆたう心をお判りでしょうか
 色めいてきこえますのも『お咎め下さいますな』」
※いで我を人な咎めそ大船のゆたのたゆたに物思ふころぞ(古今集恋一-五〇八 読人しらず)
 舟に乗りながら身分も省みず手紙を書きました。私のこの思いを咎めないでくださいね。
  ヒカルはつい頬が緩むのを堪えきれない。
「私を思う心が引き手綱のように揺れるのならば
 須磨の浦を通り過ぎてはいかないでしょう?
 『いさりせむ』=磯暮らしをしようとは思ってもみなかったけどね」
※思ひきやひなの別れに衰へて海人のなはたきいさりせむとは(古今集雑上-九六一 小野篁)
 万難をかいくぐって手紙を託し女は去った。皆が去っていく。ヒカルは未だ須磨の地に留まり続ける。


参考HP「源氏物語の世界」他
<須磨 十三につづく>
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