須磨 四
出発の日も目前に迫り、花散里の辺りにも文ばかりは通わせていたものの、多忙なヒカルは中々立ち寄る時間を取れない。
「さすがにもう一回は訪問しとくべきだろうな。私がいなくなったら他に寄りつく人もいないだろうし、さぞかし心細い思いをしておられるだろう」
よし、今夜行くぞ!と決心したが、色々あって先延ばしになり、ようやく出かけられたのは深夜だった。にも関わらず麗景殿の女御は、
「まあまあ、こんな折に物の数に入れていただくなんて……わざわざお立ち寄りいただきありがとうございます」
と手放しの喜びようである。
邸内は相変わらずひっそりと寂れて、ただヒカルの庇護だけを頼みに過して来た年月が思いやられる。この先さらに荒れていくのだろう。
月が朧に差し出て、広々とした池、深く繁った築山をぼんやりと照らす。人里離れた巌の中での生活はこのような感じなのだろうか、と背筋が冷えるヒカルだった。
西面の三の君は気配を察しながらも、
「まさか此方へまでお越しはないだろう」
とはじめから諦めていたが、心に沁みる月影がさやかに美しい中、ふと薫りわたる匂いは間違いようも無かった。女君はすこしいざり出てそのまま月をご覧になり、語らっているうちすぐ夜明けが近づく。
「なんと短夜の頃よ。たったこれだけの対面も再びかなうかどうかと思うと、何事もなく過ごしてきてしまった歳月が悔やまれます。過去も未来も世の語り草となりそうなこの身、貴女と心穏やかに過ごす間もありませんでしたね」
なおも過ぎ去った日々のことを話しているうち、鶏もさかんに鳴き出したので、ひと目につかないように、と帰り支度をはじめるヒカル。
「あの月がすっかり西山に入ってしまうように、貴方も行ってしまわれるのですね」
悲しげに呟く女君の、濃い色の衣装に月の光が映える。まさに「濡れる顔」
※逢ひに逢ひて物思ふころのわが袖に宿る月さへ濡るる顔なる(古今集恋五-七五六 伊勢)
の風情のままに歌を贈る。
「月影が宿る袖は狭くとも
そのままとどめておきましょう、見飽きることのない光を」
ヒカルはその震える肩をそっと抱き、励ますように歌を返す。
「大空を行きめぐって
ついに澄むはずの月影が
わずかな間、雲に隠れて見えないというだけですよ
思えばたったそれだけのこと。『行方を知らない涙ばかり』が心を暗くさせるのですよ」
※行く先を知らぬ涙のかなしきはただ目の前に落つるなりけり(後撰集離別-一三三三 源済)
名残を惜しみながらも、まだ薄暗いうちにと急ぎ帰った。
二条院は何から何まで組み替えた。長年親しく仕え、時世に靡かない忠実な家来たちだけを事務担当に選び出し、上下の役目を決め配置する。お供に随行する者はまた別に厳選した。
山里での生活道具は必需品のみ、ごく簡素なものとし、しかるべき漢籍類『白氏文集』などの入った箱と、その他には琴の琴ひと張だけ。場所塞ぎの調度類や華やかな衣装などは一切持たず、まるで卑しい山人と同じような質素な仕度である。
女房達を含む二条院内のすべては、西の対に全権を任せることとした。所領の荘園や牧場をはじめとしたしかるべき領地の証文などはすべてここに集約し管理させる。その他の御倉町や納殿に至るまで少納言を責任者とし、腹心の家司たちを付けて取り仕切るよう計らった。
ヒカル自身に仕えている中務や中将などといった女房達にも、
「この京にまた戻って来られるかはわからないが、それでも待っていようと思う者は西の対に落ち着くように」
と言って、上下を問わず全員を西の対に集めた。
若君の乳母たちや花散里などにも、然るべき品々、生活必需品に至るまで揃えて、細々と気を利かせる。
さらに尚侍の君の元にまで危険を冒して文を届けた。
「お見舞いくださらないのは当然と存じますが、今は最後とこの世を諦めるほど、憂いも辛さもこの上なく……
逢う瀬もない涙の河に沈んだのが
流浪する身となるきっかけだったのでしょうか
紛れもなく罪とされるのは、このように思い出すことだけでしょう」
無事に届くかどうか心許ないので、あまり細かくは書かない。
女君は悲しみながら平静を装うが、袖はこぼれる涙を隠しきれない。
「涙河に浮かぶ水泡(みなわ)も消えてしまうでしょう
流れて後の瀬も待たずに」
感情も露わに書きつけたその筆跡が心に沁みる。今ひとたびの逢瀬を、と思うがかなうはずもない。口惜しいが、あの厄介な親族が厳重に見張る中、これ以上無理をして返信することはさすがのヒカルも出来ないまま終わった。
参考HP「源氏物語の世界」他
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