須磨 三 ~二条院の少納言が語る~
ヒカルさまが大殿から帰られたのは朝方にございました。もと北の方のご実家であり、たったひとりの御子息もいらっしゃるところですから、きっとごゆっくりだと予想していましたし、皆にも普通に寝るようにと申しましたが、誰も眠れなかったようで……格子も下ろさず、そわそわとあちこちに群れ集まって、まんじりともせず夜を明かしたのでした。
侍所には人影もありません。須磨にお供するご家来がたは、家族や恋人や友人たちに別れを惜しんでいるのでしょう。その他の人たちは……何しろ、お見舞いにとこの二条院に立ち寄られるだけで重い処罰が下されるらしく、少しでも関わると厄介事ばかり増えるということで、いつも所狭しと集まっていた馬や車の跡形もなく、寂しい有様にございました。まことに世の中とは嫌なものだと思い知らされます。
ここ西の対で、あちこちの簀子に臥せっていた童女だちが起き出して
「ヒカルさまがいらした!」
と騒いでいます。ヒカルさまは、宿直姿で可愛らしく座っている童女たちに優しく声をかけながらお部屋に入られました。
「昨夜は三位中将も来てくれてね。左大臣さまと三人でついつい夜中まで飲んでしまって、気がついたら朝になってた。そんなわけなんで、いつもの朝帰りと違う事情だから、変に疑ったりしないでね。そりゃ私だって、京を出る最後の瞬間まで貴女の傍を離れたくないと思っているよ?だけど、後々のことも考えなくてはならないからね、そう邸に籠り切りというわけにもいかない。こんな無常の世に、薄情者と疎まれて要らない恨みをかうのはますます心外なことだから」
紫の上さまは、溜息をつきながらこう仰いました。
「疑いも何も、そんなこと全く気にしておりませんわ。このように離れ離れで暮らす羽目になるより他に、もっと心外なことなどあるのでしょうか?」
うっすら涙ぐみながら黙り込むそのお顔!日々見慣れているわたくしですらドキっとするほど美しく、いたいけなご様子でした。
それもこれも、父君の兵部卿宮さま……元より懇意という程ではございませんでしたが、ましてこの頃は世間の目を気にして、見舞いどころか文のひとつも寄越されません。
「こんな不誠実な方が父君だなんて。いっそ、私という娘の存在などお知らせしないままの方がよかった。恥ずかしいわ」
更に酷いことに、
「ふうん、玉の輿と思ってたらとんだ変わりようだわね。ホント縁起でもない。あの娘さんって、大事な人と次々に別れる運命をお持ちなのかしらねえ」
という継母・兵部卿宮さまの北の方の心無い言葉がどこからか漏れ、こちらにも聞こえてまいりました。ここに至り、こちらから便りを差し上げることも絶えてなくなりました。これでヒカルさまが京を出られてしまえば、他に頼る人は誰もいないのです。その焦燥感、不安の大きさは傍でみていても痛い程伝わってきました。敏いヒカルさまならば尚更です。
「もし何時までたっても赦免されず、長く歳月が過ぎるようなら、たとえ巌の中のような場所でも必ず貴女をお迎えする。ただ、今はそれでは人聞きが悪すぎるんだ。朝廷に対し自ら『謹慎』を申し上げた以上、明るい日や月の光からさえ目をそらし、思いのまま振る舞うことなどまして許されない。私に過失は無い!が、前世からの因縁でこんなことになってしまった。愛する貴女をお連れしたいのは山々だが、先例が無いと突っ込まれて、何をでっちあげられるやらわからない。これだけ道理を外れてしまった世の中だから、いったい何が起こることやら、もっと酷い災いが降りかかりかねないんだよ……」
連れていけない理由は、紫の上さまとてよくおわかりでいらっしゃいます。でも、知りたいのはそういうことではございません。その夜は随分と遅くまで話し込んでおられたお二人でした。
翌日は帥の宮さまや三位中将さまなどが二条院にいらっしゃいました。帥の宮さまは故院の御子、つまりヒカルさまの腹違いの弟君で、ご兄弟の中では一番の仲良しでございました。日が高くなるまで寝所にいらしたヒカルさまはご訪問を受け、慌てて直衣にお召し換えです。
「無位無官だからなー、こんなもんかな」
などと仰って無紋の直衣を選ばれました。かえってそのシンプルで素朴な感じがピタリと決まって、素晴らしい着こなしにございました。ヒカルさま自身満更でもなかったらしく、鏡を覗き込みながら
「えっ超痩せちゃった!ていうかやつれてる?本当にこんな顔?鏡がおかしいんじゃなくて?」
などとおどけて呟かれましたが、涙をいっぱいに浮かべて見つめておられる紫の上さまに気づくと真顔になり、
「たとえ我が身はこのように流浪しようとも
鏡に映った影は貴女の側を離れず残りましょう」
と詠まれました。
「別れたあとも影だけでも留まるのならば
鏡を見て慰めることも出来ましょうに」
柱の陰で、涙を堪えながら歌を返す紫の上さまの可憐なこと、それを見つめるヒカルさまの視線の熱いこと、こちらまで胸がきゅっと締めつけられるような場面にございました。
帥の宮さまは心からの励ましの言葉を下さり、日の暮れる頃にお帰りになりました。三位中将さまは言うまでもありません。
こういう時こそ、真のお味方が誰なのかはっきり見極められるというものですね……世の常とはいえ身に沁みましてございます。よく覚えておきますわ。
<須磨 四につづく>
参考HP「源氏物語の世界」他
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