おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

須磨 二 ~大殿の中納言が語る~

2020年4月21日  2022年6月9日 
ご無沙汰しております、今は致仕の大臣となられた左大臣さまのお邸……大殿の中納言でございます。念のため申し上げますが、弘徽殿の中納言さまとは全くの別人ですので何卒ご承知おきください。
 ……え? いえいえ、そんな大それた。三位中将さまにしても、ヒカル大将さまにしても、大殿に繋ぎとめるくびきの一つとして、微力ながら役割を果たしただけでございます。あまり成功したとも言えませんでしたし……ええ、恋人なんてとても……畏れ多いですわ。

 須磨へのご出立の二、三日前だったでしょうか、ヒカル大将……いえ、この頃はもう無位無官でいらっしゃいましたね……ヒカルさまが夜の闇に紛れて大殿にお渡りくださいましたのは。粗末な網代車に身をやつし、女車の如く忍びやかに入られて、それ自体まことにはかない夢のようでございました。近頃は訪れる人も殆どない寂しい部屋にヒカルさまが現れて、若君の乳母をはじめ女房達は驚きつつ、大歓迎いたしたものです。皆、葵の御方さま亡きあとも残って仕え続けて来た者たちで、この度の一件を口々に嘆き、うら若い女房さえ世の無常を思って涙ぐむほどでした。
 そんな中で、若君は久方ぶりの父君のご訪問を喜び、くるくると走り回ってはしゃいでいらっしゃいます。
「おお、長い間逢わないでいたのに、この父を忘れていなかったとは感心だね」
 ヒカルさまも嬉しそうに若君を抱き寄せて、お膝にすとんとのせました。睦まじい父子の姿のあまりの尊さに、皆が涙を誘われました。
 左大臣さまが早速こちらにお渡りになられ、対面されました。
「貴方が二条院にて所在なく籠られている間に参上して、たわいもない昔話でもと思っていましたが……病を理由に朝廷に仕えることを放棄し、位をも返した私が『自分ごとには腰を上げるのか』などと取り沙汰されては、と控えておりました。もとより今の私は世間に何憚ることのない立場の筈ですが、やたらと短絡的ですぐ決めつけてしまう今の世が恐ろしくてなりません。まして貴方のこのようなご悲運を目の当たりにして、命永らえることが厭わしくさえ感じられます。まったく世も末です。天地を逆さまにしても、思いもよらなかった貴方の境遇を、故院がどうご覧になられるかと思うと……」
 すっかりお窶れになられた左大臣さまは泣きの涙にくれながら長々と愚痴られます。
「何にせよ、前世からの因果なのでしょうね。せんじ詰めればただ、自らを律することを怠った故の今なのだと受け止めております。唐土では、浅はかな行為に関わって朝廷の咎めを受けた人間が、官職のはく奪まではされなくとも普段通りの社会生活を営み続けること自体、罪と見做されるとか。まして私などは、容易ならざる罪人として遠流に処すべしという声もあるようです。曇りなき心に任せて素知らぬ顔で過ごすにも、やはり憚りは多く、これ以上大きな辱めを受ける前に自ら都を逃れようと思い立った次第です」
 ヒカルさまのご決心は固いようでした。
 昔話や故院のこと、そのご遺言などを懇々と、直衣の袖も引き離せないご様子で語り続ける左大臣さまに、さすがのヒカルさまも少々辟易なされたか、無邪気に走り回る若君がお祖父さまとお父さまと交互に甘えついてらっしゃいますのを、ぼんやりとご覧になっていらっしゃいます。
「亡き娘を片時も忘れることなく今でも悲しんでおりますが……この度のことで、もし娘が生きておりましたらどんなに思い嘆いていただろうか、よくぞ短命でこのような悪夢を見ないで済んだことよと……しいて思い成そうともしています。頑是ない若君がこんな年寄りのもとに留まって、実の親に甘えられない月日が積み重なる、それが一番悲しゅうございます。実際、何か罪を犯したからといって、必ずしも皆が皆こういった罪科に処せられるわけでもございません。異国の朝廷でもやはりこの類の事件は数多くございました。讒言も根拠があればこそ、どう考えても貴方に罪があるはずもございませんのに」
 左大臣さまは、ヒカルさまへの疑いは全てが事実無根だと頭から信じておられるようでした。というより、深く考える余裕も未だ無かったのでございましょう。折も折、三位中将さまがお渡りになられ、そのまま酒の席になり、お三方で痛飲なさるうちすっかり夜も更けました。
 左大臣さま、三位中将さまがご退出されると、ヒカルさまは女房達を集められ酔い覚ましにと少しお話をなさいました。それから……皆が寝静まったその後、耳元で
「君のために、今夜ここで過ごすことにしたんだよ」
 と囁く声が……いいえ、夢でしたわね。美しくも儚い夢にございました。

 ヒカルさまは、夜明け前まだ暗いうちに出立されることになりました。有明の月が煌々と照らす真っ白な庭に、盛りを過ぎわずかに咲き残る木々の蔭が映り、薄く霧がかかって霞んでいます。秋の夜よりも趣深い風景の中、隅の高欄に寄りかかり物思いにふけるヒカル大将の姿は、どなたであれ目を奪われずにはいられなかったでしょう。
 わたくしは開いた妻戸の辺りに控えておりました。誰に言うとなく呟かれるヒカルさまのお声が耳に届きます。
「再びこうして逢えるかどうか、考えれば考える程難しいね。こんなことになるとは知らず、もっと気安く逢える機会もあったろうに、みすみすと逃したまま隔たってしまって……」
 どなたへの言葉なのかわかりませんけれど……ただただ胸が痛く、涙が頬を濡らすばかりでございました。
 若君の乳母・宰相の君より、大宮の御前からの言付けが参りました。
「わたくし自身でご挨拶申し上げたいところ、悲しみに目が眩むほど取り乱し躊躇っているうちに、早やお立ちとのこと。こんな時間に人目を憚りながら戻られるとは、何もかもが様変わりしてしまったことを痛感しております。不憫な幼子が眠っている間も惜しまれて……とのことです」
 ヒカルさまは思わずほろりとされつつ、
「かの鳥辺山に立ちのぼった妻の煙と見まがう
 海人の塩焼く煙を見に参ります」
 返歌というでもなく口ずさまれました。
「暁の別れはこれほどまでに心に迫るものだろうかと、よくわかってくださる方もいるだろうね」
 わたくしではない、きっと姑である大宮さまに向けて言われた言葉だったのでしょうが、殊更に身に沁みたものですから思わず涙が溢れ、慌てて顔を背けました。宰相の君も涙で声を詰まらせつつ申し上げます。
「別れという文字はいつであっても嫌なものだと申します。その中でも今朝はやはり格別かと……」
「お話ししたいことを、何度もああだこうだと思い返しておりましたが、ただもつれるばかりで言葉にならない、私の胸の内をどうか察していただければ。子の寝顔だけでも見ていきたいのは山々ですが、かえって離れがたくなりましょう。強情なようですが、このまま思い切って出ていきます、と伝えておくれ」
 出立されるヒカルさまを、女房達が物蔭からそっと見送っています。
 入り方の月の光は眩ゆく、実に優雅で清らかでございました。もの言いたげに、憂いに満ちた面持ちで佇むヒカルさまのお姿には、きっと虎や狼すら涙するにちがいありません。わたくしも含め女房達の多くは、ヒカルさまがまだ幼さの残るお年ごろからお世話申し上げてきましたので、まして今のご境遇が我がことのように辛く感じられるのでした。
 大宮さまからの返歌が追いかけるように届けられます。
「亡き娘と貴方と、これでますます隔たってしまうことでしょう
 娘が煙となった都の空からいなくなってしまうのだから」
 皆とりどりに悲しみばかり尽きせず、ご出立後も随分長いこと涙に沈んでおりましたとか。

 わたくし、大殿の中納言のお話はこれで終わりとさせていただきます。御清聴、まことにありがとうございました。またお逢いできる日を楽しみにしております。

<須磨 三につづく>
参考HP「源氏物語の世界」他
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