花散里 一
wikiより:ヤマトタチバナの花 |
故桐壺院の后の一人、麗景殿の女御という方には子供もおらず、院の崩御後はなおのこと訪れる者すら絶えて寂れ気味だったが、ただヒカルだけが何かと気を配り庇護する形となっていた。
実はヒカル、この女御の妹である三の君と内裏辺りでほんの少し交流があった。そのわずかな縁だけで、忘れ去ることもなくかといって格別な扱いをするわけでもなく、お互い心に留めているだけの薄い関係。悩み多き昨今、世の無常感をそそる種のひとつとして彼女の存在を思い出すと、ヒカルはいてもたってもいられなくなり、五月雨空の珍しい晴れ間を機に出掛けていった。
特にこれといった支度もせず、目立たぬよう前駆もおかず、しずしずと中川辺りを通る。風情ある木立に囲まれた小さな邸から、良い音色の琴を和琴の調べに合わせ、賑やかに弾いているのが聴こえる。
ヒカルは門に近い所から少し乗り出して覗き込む。大きな桂の木を吹き渡る風に、葵祭をしみじみ思いおこすうちに気づいた。
「ここはもしや……」
昔ひと夜を過ごした邸だ。急に気持ちが騒ぎ出す。
「しかし随分昔のことだし、向こうも殆ど忘れているだろうな」
気が引けたものの、このまま無視もできずに逡巡するヒカル。折しもほととぎすがひと鳴きして飛んで行く、訪れよと促すかのように。ヒカルは惟光に命じて車を押し戻し、戸を叩かせる。
「昔に立ちかえり懐かしく思わずにはいられないほととぎすの声です
束の間語らった宿の垣根に」
寝殿とおぼしき建物の西の角から、女房達のざわめきが聴こえる。惟光も、確かに以前も来たことのある場所と合点がいき、咳払いしてからヒカルの言を伝える。如何にも若やいだ、ああだこうだとささめく声の中から返歌が来た。
「ほととぎすの声はええ、確かに聞こえましたが
いったいどのようなご用なのでしょうか。まるで五月雨の空のようにはっきりしない感じですこと」
これはもう、わかっていて白ばくれているなと見て取った惟光は
「ごもっともで。まさに『植えた垣根も育ち過ぎて見当つかない』ってことですな」
※囲はねど蓬の籬夏来れば植ゑし垣根も茂りあひけり
とアッサリ諦めて出て来た。引くの速すぎじゃない?と内心不満なヒカルだが、
「こちらが並の身分でないと知ってのこの塩対応、普通に考えると他にキッチリ通う男がいるってことだよね。まあ、これだけ時が経っていれば仕方ないか……」
とちょっぴり凹む一方で
「このくらいの身分だと、ちょっと前に見た筑紫の五節の子が可愛かったよね」
などと口走ったりする。
まことに懲りないというか、みずから苦労を招きそうな性分である。ほんのわずかでも関わった女性とは完全に繋がりを断たないのが常なので、かえって女性たちの物思いの種が数多生み出される結果になるのだ。
さてお目当ての場所は予想以上にひと気なく、まさに隠棲といった有様で、先帝の后ともあろうお方がおいたわしい、とさすがのヒカルも胸が痛む。女御の部屋で昔話のお相手を懇々切々としているうち、すっかり夜も更けてしまった。
二十日の月が差し昇る頃、丈高く繁る木々が一面に影をつくる。すぐ近くから橘の薫りが優しく匂いわたる。お年を召した女御はどこまでも情緒深く、気高く愛らしかった。
「故院からは特に際立ったご寵愛こそなかったものの、その仲は睦まじかった。親しみの持てる方だとよく褒めておられたな」
亡き父院の声や言葉の端々が蘇り、目頭を熱くするヒカルだった。
先ほど垣根を飛んで行ったほととぎすだろうか、同じ声で鳴いている。「もしや後を慕ってきたのか」と思う程でとても可愛らしい。「なんでここにいるとわかったんだい?」などと小声で古い歌を口ずさみつつ、女御に話しかける。
「橘の薫りを懐かしみ
ほととぎすが花散る里を尋ねて来た
忘れがたい昔を思う心の慰めには、やはりこちらに参上する以外ありませんでした。何とか気持ちを紛らわせようとして、寂しさがいや増すこともありました。人は時流に従うものですから、こうして語り合える人も次々と消えてゆきます。まして貴方はそんな思いをずっとしてきて、紛らわせる術も心得ておいででしょう。私の気持ちをわかってくださる方は、もはや貴方以外にはおられないのですよ」
女御は前々から浅からぬ無常観を持っていた方だが、人柄の良さゆえにあわれを誘われたか、
「訪れる人もなく荒れ果てた住まいには
軒端の橘だけが貴方とのよすがでございますわ」
とさらりと詠んだ。
「この、謙虚でいてなお思い遣りに溢れた返し、やはり他の人とは違う……」
と感じいるヒカルであった。
女御のもとを辞したヒカル、三の君のいる西面にさり気なく人目を忍んで移動して、そっと覗きこむ。女君の目には眩しすぎる、世にも稀なるヒカルの姿は、これまでの不義理への恨みなどすべて雲散霧消させる。ヒカルの方も、いつものようにあれこれ細やかに気を遣い優しく語らう。全く心にもない言動というわけではなさそうである。
ヒカルの恋の相手はいかにかりそめの仲であっても、皆並大抵の身分ではなく、それぞれ何かしら取り柄がある。自分ひとりだけのヒカルではないとよく理解していて、それを嫌とも思わず、お互いに情愛をかわしあいそれなりに幸せに過すのだ。それに満足できない者は何だかんだと心変わりしていくが、「まあそれも仕方ないよね。世の常だ」とヒカル自身は納得している。先ほどの垣根の女はちょうどその一例であったというわけだ。
コメント
コメントを投稿