賢木 八
「ダメだ立ち直れない……恥ずかしすぎて、とてもじゃないけど顔向けできない。どうせ何をやっても中宮様には大迷惑なんだし……」
すっかり凹んでしまい、後朝の文さえ出さない。一切の音信を断って、内裏や春宮にも参内せず引き籠り、寝ても覚めても
「ここまで嫌われてると思わなかった……でも好き……いやでも」
と逡巡するばかりで、ただただ藤壺中宮が恋しく悲しい気持ちがおさまらない。体裁を取り繕う気力も無く、魂も抜けてしまったかのように体に力が入らない。
「此の世に生きていればいるほど嫌なことばかり増えるのは何故なんだろう」
傷心のままいっそ出家してしまおうかとも思うが、そのたび若紫の顔が浮かぶ。あの可愛らしい、しんから自分を頼り切っている姫を振り捨てるなど出来ようはずもない。
藤壺中宮の辺りも、あの事件が尾を引いてとても普段通りにとはいかない。ヒカルがこれ見よがしに引き籠って文さえ寄越さないのを、王命婦などは
「見つからないよう必死だったとはいえ、ちとやりすぎたかしら?」
と焦っている。中宮自身も、
「何より彼は春宮の後見役。完全に切りすてることなど勿論できないし、あまり邪険にして、世をはかなんで勢いのまま出家なんてことになったら、それこそ春宮の将来に大打撃だわ」
と苦り切っている。付き合いが長いのでお見通しなのである。
「だけどこのようなことが止まなければ、ただでさえ針の筵のような今上帝の世に、きっとみっともない浮名まで流れ出す。やはり大后があるまじきこととしている中宮の位をさっさと退いてしまうべきだろう」
以前から考えていたことでもあった。思い起こせば、故院が事細かに、幾度も繰り返しくれぐれもと頼んでいたことは、けして大袈裟な話ではなく確かに起こり得る危機なのだ。
「すべてが故院のご在位中とは違う。変わってゆくのだ。戚夫人が受けたような残酷な辱め(※)ではなくとも、世間の物笑いになるようなことが我が身に起こりかねない」
考えれば考えるほどこの世が疎ましく、とても平穏に暮らしていける気がしない。ただ、出家の決意は固まったものの、我が子春宮に会わないまま姿を変えることは悲しく思われたので、こっそり参内することにした。
普段のヒカル大将は些細なことでもよく気づいて春宮に仕えていたが、このところ体調不良を理由にお送りの供奉にも参上しない。最低限のお世話はしているものの
「よっぽど凹んでるのねえ」
と事情を知る女房達はさすがに気の毒に思うのだった。
可愛らしく成長した春宮は、母中宮の思いがけない訪問に驚き喜んで、無邪気にまとわりついてくる。いとしい我が子の姿を微笑ましく見つつも、やはり以前とは明らかに違う内裏まわりの空気を肌で感じる中宮だった。
大后はもうこちらへの敵意を隠さない。こんなちょっとした出入りだけでもしっかり監視されている。少しの粗も不手際も見逃さないであろうあの方は、春宮にとっても危険で恐ろしい存在だ。万感胸に迫った藤壺中宮は思わず問いかける。
「春宮」
「はい?」
「わたくしと長らくお会いしないうちに、わたくしの姿形がおかしな格好に変わりましたらどう思われますか?」
春宮は中宮の顔をじっと見つめて
「おかしな格好って、式部みたいに?どうして?母上はこんなにおきれいなのに」
と笑う。この上なくいじらしい。
「あの人はお年寄りだから……あんな風ではなくて、髪は今よりうんと短く黒い衣装など着て、夜居の僧のようになろうと思うのです。お目にかかることもますます間遠になってしまうかと」
最後は泣き声になってしまう。春宮は真顔になって
「そんな……ちょっとの間会えないだけでも寂しいのに」
と涙ぐみ、さすがに恥ずかしいのか横を向く。その髪はゆらゆらと美しく、潤んだ目元が優しく輝いている。歯が少し欠けて口の中が黒ずんでいるが、その輝くような笑顔は女と見まがうほどの美しさである。
「成長するにつれてますますヒカル大将に似ていらっしゃる。さすがに誰かが不審に思わないだろうか」
その美しさが逆に中宮にとっては玉の疵であり、大后とその一派の思惑、世間の煩さが一層空恐ろしく感じられるのだった。
(※)戚夫人は前漢初代皇帝・高祖劉邦の側室。高祖の存命中は一身に寵愛を受け羽振りがよかったが、死後は皇太后の呂夫人により捕らえられ、強制的に労働させられたばかりか、両手両足を切られ、目耳声を潰され、厠に投げ落とされて「人豚」と呼ばれた。その息子も後に毒殺された。(wikiより)
参考HP「源氏物語の世界」
<賢木 九につづく>
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