賢木 六 ~オフィスにて~
「えっどなた……あっ!王命婦さんじゃないですか!大丈夫ですか?右近ちゃーん!」
「平気……ちょっと、立ちくらみしただけで」
「いやいや顔色悪いですよ!そこ風も通るし床冷たいですから奥に入りましょう!段差気をつけて、ゆっくり」
王命婦の肩を支えつつ厚めの座蒲団に座らせる侍従。
「ほら、これ飲んで王命婦さん。あったかい生姜葛湯」
さっと湯呑を差し出す右近。
「火鉢もこっちに寄せて、と。今日寒いですもんね」
「王命婦さん、ちょっと痩せた?目の下に隈もあるし……忙しいの?」
「眠れないのよ考えることがあり過ぎて。これはどこかで吐き出さないと壊れちゃうわって思って、無理してここまで来たの」
「王命婦さん……」
「……とりあえず、じっくり話そうか。典局さんに断って」
「もうお願いしてきた。何時まででもご自由に、人払いしておくわって」
「さすが手回しがいいわね。ていうか仲良しね」
「えっと、格子閉めてくる!仕切りと、あとお茶菓子持ってくる!甘いもの必要だと思うから!」
「ありがと侍従ちゃん、よろしく! ささ王命婦さん、こっちに寄って。あったかいところに」
座り込んで深く溜息をつく王命婦。
「どこから話したらいいのかわからないけど、まずはひとつ重大な決定をいうとね」
奥まった場所で膝突き合わせ、固唾をのむ右近と侍従。
「藤壺中宮さまね、出家なさるの。ごく近いうちに」
「ええっマジで?!全然お若いですよね!春宮さまだってまだ母君が恋しいお年頃なのに」
「どういうこと?大后さまの辺りで何かあった?」
「その方面からの風当たりは強いけど、特に何かされたとかは無いわ。今のところはね」
生姜葛湯を飲み干し、再度溜息をつく。
「すべてはヒカル王子なのよ……」
たしかに、桐壺院の崩御以来中宮さまが一番頼りにしていたのはヒカル大将で、実際とてもよくしていただいてるとは思うのよ。春宮さまも懐いているしね。
だけどやっぱり、後見人としての役割以上のものを求めてるわけよ彼は。はっきり言うともう既に自分の女みたいな気でいる。あからさまではないにせよ、直に応対する私たち側近の女房ならばすぐわかる、徐々にだけど確実に距離詰めてく感があったわけ。まして中宮さまご本人は戦々恐々よ。
ただでさえ故院への罪悪感が半端ないところに、まだ諒闇の年も明けてないうちからコレ?ってね。どうにか色めいた気持ちが無くなってくれないものかと、こっそり御祈祷までさせてたくらい中宮さまの危機感は強かった。
そんな中、事件は起きたわけ。
「ごくり……」
「侍従ちゃんたら、音大きすぎ(小声)」
はじめは本当に誰も気づかなかった。中務ちゃんも弁の君も、勿論私も。三人とも朝晩ほぼ離れることなく一緒にいるから、誰も手引きしようもない。なのに一体どうやったのかあの大将、数々のガードを潜り抜けて中宮さまの寝所に入り込んだのよ。
心当たりがあるとすれば兵部卿宮ね。王子は故院に名指しされた後見役ってことでしょっちゅうあのお邸に出入りしてるし、中宮さまの部屋の場所も警備状況も言葉巧みに聞き出したんじゃないかしら。バレないように時間かけてさ。宮様ご本人はそんなこととは露知らないままだろうけど。
当然ながら中宮さまはきっぱりと撥ねつけた。だけどそれで簡単に引っ込む王子じゃない。抵抗し続けた中宮さまは過呼吸を起こされて、その時点でやっと私たちが異変に気づいたってわけ。
薄暗い御簾の中、胸を押さえて苦しまれる中宮さま、その傍らに茫然と座り込んでるヒカル王子……あまりのことに二度見三度見したわ。誰も叫びださなかったのが不思議なくらいよ。
そこからがさあ大変。まず中務ちゃんが中宮さまに駆け寄って介抱し、私がグダグダぐずってるヒカル王子をなだめすかして引き離してひとまず奥の塗籠(物置)に押し込んで、弁の君が脱ぎ散らかしてた王子の衣装を拾って屏風の後ろに放ったわよ。あっという間に明るくなってきちゃって、周りの女房さんたちもどうしたどうしたでわらわら寄って来るわ、果ては兵部卿宮さまや中宮大夫まで出て来て「僧を呼べ」と叫ぶわでそりゃもうてんやわんや、生きた心地もしなかったわ。
幸い中宮さま自身は暫くしたら落ち着かれて、午後すぎには起きていつもの御座所に座っていられるまでに回復したのよ。兵部卿宮もああよかったと安心されて退出、他の女房たちも三々五々それぞれの持ち場に戻った。さて、あとはヒカル王子。どうやって人目につかないようお帰りになってもらおうかって三人で目くばせしあってたわけ。中宮さまもやっと御気分が良くなったのに、王子が塗籠に隠れたままなんてこと知ったらまたきっとパニくっちゃう。聞こえないようにすこし離れて相談しましょうってね。
「それは……」
「そんなチャンスを見逃すヒカル王子じゃない……」
侍従ちゃん、流石は長年のファンね。その通りよ。
参考HP「源氏物語の世界」
<賢木 七につづく>
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