葵 十六(第二回平安女子会)
ところが若紫の姫が、日が高くなっても一向に起きていらっしゃいません。
「あら……珍しいこともあるものね。御気分でもお悪いのでは」
と、女房一同心配して、かわるがわる声をかけて……しまったのは誠に……何故あの時、皆が皆あれ程察しが悪かったのか、いくら考えても理解できません……思い出すたび叫び出したいくらいで……
「叫んじゃえ!」「そうよ、遠慮なく」「GO!」
アアアアアアっ!
……失礼しました。すこしすっとしましたわ。
いくらなんでもおかしいと思い始めたのは昼も近づいた頃でした。体調が悪ければはっきり仰るご気性ですし、額に触れてみても熱はありません。少なくともお医者を呼んだり御薬湯を用意したりは必要なさそうだとわかったので、暫くそっとしておこうということになったのです。私だけ、立ち去った振りをしてすぐ近く、姫君の視線の届かない所に待機しました。そうして周囲から人の姿が消えてようやく、姫君は起き上がられたのです。
そのお顔が……これまで殆ど見たことの無い、怒りに満ちていて。驚きのあまり目が釘付けになり、そして遂に気づいたのです。姫の枕元に、隠すように置いてある硯箱。ひと目で、紛れもなくヒカルさまの硯箱だとわかりました。
姫はすこし躊躇っていらっしゃいましたが、きっと唇を引き結ぶとその箱の蓋を開けました。予想通り、そこにはお文が入っていました。
後朝(きぬぎぬ)の文が。
「えっえええええーーー!(侍従)」「……いきなりそれ?(右近)」腕を組み、無言で目を瞑る王命婦。
少納言はまた溢れてきた涙を拭いながら溜息をつき、水を一口飲む。
「それって……誰も気づかなかったの? 王子が忍んできてたこと。いや決して責めてるわけじゃないんだけど、二条院みたいな、しっかりした女房さんたちが大勢いる中でそんなことあり得るのかと思って」と右近。
すこし前から姫は一人でおやすみになりたいと仰って、夜の間几帳の内には誰もおりませんでした。私たち女房は、同じ西の対にしてもすこし離れた所にまとまって寝ております。もちろん壁があるわけでもなく、施錠をしているわけでもないので、何か異変があればすぐに駆けつけられるような位置でしたが、ヒカルさまのお部屋の方、つまり反対側からこっそり入られたらまず気が付きません。そもそもそちらは警戒すべき方向と見做してはいなかったのですよ。この家の御主人ですからね、夜中に家の中を移動していたところで、警護の者だって何も言うはずもありません。
何故、あんなに無防備だったのでしょうね……そりゃ、何時かはと思っておりました。若紫の姫君にしても聡明な方ですから、月のものが始まる随分前から夫婦とはどういうものか理解しておいででしたし、結婚するならヒカルお兄様以外にはいない、くらいには思ってらっしゃいました。大体男女がひとつ屋根の下で、実の親子やきょうだいより密着して生活するなんて、外から見れば、もう既に夫婦同然ではないかと思われても仕方ない状況ですよね。
なのに私たちは信じていたんです、その「何時か」は今ではないって。まさかまさか、こんな不意を突くようなやり方をなさるとは、夢にも思っていなかった。
姫は結び文を広げたものの、すぐ煩そうに投げやって、じっと黙って座り込んでらっしゃいました。私は迷いましたが、意を決して姫君に近づきました。文にはこうありました。
「どうして長い間何も無い夜を過ごしてきたのでしょう
幾夜も慣れ親しんできた仲なのに」
姫君は私と目を合わせないまま仰いました。
「はじめからこういう目的だったのね。何故、今まで頼もしいお兄様などと思い込んでいたのかしら。悔しい。自分の愚かさが悔しい」
目には涙が滲んでいます。私は何も言えず、ただその小さな肩を抱きしめることしか出来ませんでした。お返事などまして書けるはずもございません。
「……あー。キツイわこれは、いくら緩い平安の世って言ってもさあ……」(右近)
「当代きってのモテ男のくせに、何を焦ったのかしらね。それこそ時間はたっぷりあるんだからじっくり口説けばいいのに」(王命婦)
黙って涙目で酒を注ぐ侍従。
今思うと、もしかしてこれは?という色めいた会話は確かにございました。けれど、いつもの軽口と見分けがつかず、姫君にしても単なる掛け合いを楽しんでいるといった調子で、誰もがまるで本気とは受け取っていなかったのです。私たちが察するべきでした。迂闊でした。
昼過ぎに、ヒカルさまが姫君のご様子を見に来られました。私はまた、すぐ近くだけれど死角の位置に収まりました。
「御気分が悪そうだね。今日は碁も打たないのかい?張り合いがないなあ」
などとシレっと仰って覗き込みますが、姫君はますます衾を引き被ってしまいます。
「あれ、冷たい……何でそんな態度なの? 皆が変に思うよ?」
ヒカルさまが衾を引っ張ります。姫君は汗びっしょりで、額にかかる髪もすっかり濡れてしまっておりました。
「ああ大変だ。綺麗な髪が台無しだよ?」
汗を拭いてやろうとなさいますが、姫君は全身で拒否、返事もしません。
「よしよし、わかったよ、もう触らない。悲しいなあ」
などと言いながら、何気なく硯箱を開けて中身をチェックされますが、当然のことながら何も入っておりません。ヒカルさまは大体予想はついていたのでしょう、軽く溜息をつきながらも微笑まれました。そのお顔、お姿のお美しく艶めかしいことといったら! すぐ近くにおりました私も当てられて、頬が熱くなるほどでした。ヒカルさまはそんな調子で、うずくまったままの姫君に優しくお声をかけながら、一日じゅう寄り添われていたのです。
「う、羨ましい、ような……」
「もー、侍従ちゃんてば王子に甘いんだからホント。普通に酷すぎでしょコレ」
「まあまあ右近ちゃん。かなりの勇み足だったとはいえ、一応これからは妻として遇して身分と生活の保障はカンペキなわけだからね。平安時代としてはこのくらいの早婚ってよくある話だし。ただ、事前にせめて少納言さんには了承得ておきなさいよって話よね」
王命婦さん……! そうなんです、何でもいい、私にひと言あれば、姫君にうまく伝えられたと思うんです。いきなり一足飛びに大人の階段てっぺんドン!じゃなく、せめて今から上りますよと予告出来ていれば、姫君がここまでショックを受けずに済んだと思うんです。
ヒカルさま自身も後ろめたかったのか、その後の色々も私に直接依頼されることはありませんでした。そこらへんもちょっと辛かったんですよね……。
「少納言さん、そこ詳しく」「この際全部吐き出しちゃえ!」「お注ぎしまーす!」
全員のグラスにドボドボと、王命婦の持ってきた高い酒(兵部卿宮セレクト)が惜しげも無く注がれるのだった。
参考HP「源氏物語の世界」
<葵 十七(第二回平安女子会)につづく>
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