しゃぼんだまによせて 二

「おおーい、いるかーい」
 よく通る声。隆男は今まさに下ろそうとした箱をゆっくり元の位置に戻しながら大声で返事をした。
「はーい、ただいま」
 首に掛けていた手拭いを素早く外して手を拭きながら廊下に出た。埃まみれの作務衣を掃き出し窓で軽く払い玄関へと向かう。本堂脇を通り過ぎ、廊下を母屋側へ折れたところで、大股でこちらに向かって来る男が見えた。上下白の洋装だ。頭に、こちらも真っ白なカンカン帽をかぶっている。
「やあ、君が隆男君かい? 思っていたより若いな」
 赤ら顔で、目ばかりがぎょろりと大きい。滝のように流れる汗をひっきりなしに小さなハンケチで拭いながら、ずかずかと近づいてくる。よく磨かれた板敷の床がきしきしと音を立てた。
「住職はついいましがた檀家に呼ばれまして……すぐ戻られると思いますが」
「ああ、わかっとる。盆前で書き入れ時だろ、万事承知の介だ。ふう、ここは風が通って涼しいな! 昔とちっとも変っとらん」
 男は足を止めない。まごつく隆男を余所にカンカン帽を脱ぎ、さっと一礼して本堂に上がる。
「あ、あの」
「先に参らせて貰うよ」
 戒壇の前に座るとさい銭箱に無造作に札を一枚入れ、大ぶりな数珠を持ち出して手を合わせた。
 油蝉の声がけたたましく本堂に響き渡った。見ると、柱の高い位置に一匹止まっている。
「さて」
 男はすっくと立ちあがり、隆男の方を振り向いてにっこり笑った。
「自己紹介がまだだったな。儂は住職の幼馴染で、高橋弥一郎だ。君は、柏木隆男君だろう?」
「は、はい」
「住職が、今度来た小僧は体が丈夫な上に器用で気が利く、大変使い勝手がよいと自慢しとったんだ。歳は幾つだ?」
「九月で十六になります」
「ふむ、ぎりぎり明治生まれなのだな。しかし親元を離れて独り立ちするには一番いい時だ。儂も同じ歳に家を出て商売の道に入った。住職と違って勉強は今ひとつだったが、ま、儂のほうが女にはもてたぜ」
 弥一郎はがははと笑いながら、
「行き成りで済まないな。住職には随分前に手紙を出してあるが、何時来られるかは自分でも皆目見当がつかんのだ。たまたま今日は仕事で近くに来たから寄ったんだが、あまり長くも居られない。とりあえずそこの、奥の蔵を見せてくれないか?」
「書庫ですか。今ちょうど整理をしていたところです。散らかっていますが……」
 弥一郎は返事も待たずに大股で歩き出す。隆男は慌てて後を追い、廻り込んで先ほど出て来たままの鎧戸を更に一杯に開けた。元来寺の者以外は入らせないが、隆男の苗字と「使い勝手がよい」という住職の口癖を知っている、何よりこの寺の内部を熟知した様子、幼馴染という言葉に嘘はないだろう。布地も仕立ても上等な服、目の詰まった形の良いカンカン帽。近くで見ると成程、如何にも実業家といった風体だ。
「どうぞ」
 梅雨が明けた頃に虫干しをしたが、昼間でも薄暗いこの部屋は閉め切っているとすぐに湿気が籠る。昔の帳簿類や過去帳がぎっしりと詰まった長持ちはすべて蓋を開けられ、黒光りする床の上にさまざまな書籍が所狭しと積み上げてある。弥一郎は杉の香りのする真新しい作り付けの棚に目を留め、
「これは、君が作ったのか?」
「はい。以前の棚が古くなって壊れましたもので。それでこの際整理をと」
「ほう、大したもんだ。どれ」
 弥一郎は棚を軽く叩いてみたり押さえてみたり、引き戸を開け閉めしてみたり、ひとしきり点検して回ると、満面の笑顔を向けて言った。
「君は大工になれ、坊主じゃなく。そっちの方が余程向いてる」
「えっ」
 面食らう隆男を余所に、弥一郎は素早く視線を走らせ、
「これだな」
 雑誌の山から数冊を拾い上げた。ぱらぱらとめくりながら
「仏教子供会の会報誌だな。もう少し最近のが無いかね?」
「それでしたら、去年の分がまとめてあります」
「うむ、有難う」
 弥一郎は薄暗い蔵の床にどっかと胡坐をかき、頁をめくり始めた。座布団をすすめたが、聞こえていない。そういえば茶菓子も何も出していないと気づき、厨に下りて麦茶と煮豆、お絞りを盆に載せて戻ったが、弥一郎は同じ格好でそのまま座っていた。邪魔をしないようそっと脇に盆を置くと、お絞りをさっと取って顔や首を拭き、煮豆を口に入れ、麦茶を一息に飲んだ。目は本に釘付けのままだ。
 これだけ集中していても、こちらの動きは全部見ているんだな。
 そう思った瞬間に背中がひやっとした。相変わらず大音声で鳴き続ける油蝉の他には音らしい音が無い。隆男は思わず居ずまいを正し、整理整頓の続きを始めた。
「よし! これ、この二冊借りていくぞ」
 立ち上がった弥一郎の手に、「金の塔」と「童謡小曲 第三集」があった。「童謡小曲」の方は真新しい。
「ええと、それは住職に……」
 聞きなれた下駄の音に続き、玄関をカラカラと開ける音がした。
「ちょうど帰って来たようだな。儂はこのまま住職に挨拶して帰る。こいつも持って帰っていいかどうか聞いてみるから、君は此処で仕事の続きをやってくれたまえ。世話になったな。御馳走さん」
 弥一郎は一気にまくしたてると、来た時と同じようにきしきしと音を立てて廊下を歩き去っていった。油蝉がジッ、と鳴いてその後を追った。
<しゃぼんだまによせて 三につづく>

【参考】
なっとく童謡・唱歌 中山晋平の童謡1

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