葵 七(中納言 一)
たびたび物の怪に悩まされつつも、いよいよ臨月を迎えられた葵上さま。毎日大勢のお坊様や修験者たちが入れ替わりたちかわり出入りし、ヒカルさまのご訪問もいつになく頻繁でございましたので、大殿はむしろ常よりも賑やかで華やかな雰囲気に包まれておりました。そのせいで全体に少々気が緩んでいた……と言われればその通りかもしれません。
御方さまは何の前触れもなく突然に産気づかれました。すぐさまありったけの祈祷が尽くされ、有象無象の物の怪どもが次々と祓われていきます。ところが、ひとつだけどうしても離れないモノがございました。霊験あらたかな験者たちによりようやく調伏されたその物の怪めは、苦しそうに泣きながらこう訴えたのです。
「すこし祈祷を緩めてくださいませんか……ヒカル大将に……申し上げたいことがございます……」
御方さまはこのとき既に危篤状態にありました。憑いて離れない物の怪の執着を少しでも解いてやれば望みもあるやもしれないと、几帳辺りにまで憑坐を入れさせたのです。間近にはヒカルさまだけを残し、父大臣さまも母宮さまも少し下がられました。邸中が割れんばかりの加持祈祷の音は止み、ただお坊様たちが法華経を読む静かなお声だけが尊く響いておりました。
ヒカルさまが几帳の帷子を引き上げて中を覗きこまれます。御方さまの長い黒髪は引き結ばれて枕もとに添えられ、白い着物によく映えておりました。大きなお腹でぐったりと臥してらっしゃるその姿にはっと息をのまれたヒカルさまは、
「いつも気高く隙の無い方なのに、こんなに無防備に弱弱しくしてらっしゃるとは」
と、お手をとられました。
「何と、辛い思いをさせてくれる……」
そう言ったきり言葉になりません。黙って泣いているヒカルさまを、御方さまは苦しい息の中じっと見つめられ、はらはらと涙を零されます。ヒカルさまは涙を堪えつつ、こんこんと慰められます。
「何事もあまり思いつめないで。大丈夫、万一のことがあっても夫婦なのですから、いつか何処かで必ずまた逢える。お父上の左大臣や母宮さまにしても、親子という深い縁のある間柄は、生まれ変わっても切れることはありません。どうか安心して……」
「いいえ、そういうことではございません」
妙にはっきりと聞こえたその声音に耳を疑いました。
「身体がとても苦しいのよ、だから少し休ませていただきたかっただけ。こんなふうに、こちらにうかがうことになるなんて思ってもみませんでしたわ。物思いが高じた人の魂が抜け出ていくという話はほんとうでしたのね」
いかにも馴れ馴れしいその口ぶり、明らかにいつもの御方さまの物言いではございません。
「悲しみのあまり中空に迷い出た我が魂を帰らせることが出来るのは貴方だけ。逢いにいらして、下前の褄を結んでくださいませ。
※嘆きわび空に乱るるわが魂を 結びとどめよしたがへのつま」
ぞっ、と総毛立つようなその気配。もしや世間で面白おかしく噂している通り、あの……ヒカルさまは驚かれながらも、毅然と問いかけられました。
「知ったふうな口を聞く。誰なんだ、はっきり名のったらどうだ!」
その瞬間、にいいーっと笑ったその顔!凄まじいほどに美しく、禍々しいその顔は、御方さまのそれとは似ても似つきませんでした。ヒカルさまの顔からはみるみる色が失われ、私も恐ろしさのあまり身じろぎも出来ません。やはり貴方か、と呟く掠れた声がかすかに耳に届きました。
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