おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

葵 八(中納言 二)

2019年8月5日  2022年6月8日 
爪の先まで冷えきるような出来事でしたが、実際にはほんの一瞬だったのかもしれません。母宮さまが御薬湯を持っていらしたので、すぐに御方さまを抱き起し飲ませました。それから程なくして遂に、男の子が産まれたのです! それまでの緊張から一転、邸内は歓声に包まれました。
 物の怪どもが悔しがり騒ぐ中、加持祈祷にも一層の熱が入り、無事後産も終えられました。山の座主や何某の高僧たちは汗をふきふき得意顔で、そそくさと退出していきます。いつもの御修法などは再開されましたが、さしあたっての危機は去ったということで皆ほっと胸を撫で下ろしました。新しい命の誕生を言祝ぐことで、大殿は久しぶりに明るさを取り戻したのでございます。
 桐壺院をはじめ、親王や上達部の方々より続々とお祝いが届きます。贈り物の品々の珍しい事立派な事、私たち女房は夜ごとに見ては喜び騒いでおりました。男子のご誕生ということで、祝いの儀式もそれは盛大で立派なものでございました。
 とはいえ一時は危篤状態だった御方さまですから、これで安心とはとても申せません。皆、気を緩めることなく懸命にお世話いたしておりました。ヒカルさまも夜歩きなど一切なさらず大殿に詰め、生まれたばかりの我が子を抱いて、そっと頬を触ったり撫でたりしてらっしゃいます。左大臣さまもその様子に目を細めつつ、
「娘も一日も早く回復してくれれば……まあ、あれ程重く患った後だから、焦っても仕方ないね」
 とご自分に言い聞かせておられました。
 誠にお可愛らしい若宮さまでございました。目元がヒカルさまそっくりですねと申し上げると、
「そうかな?」
 ヒカルさまは微笑んで、改めてじっと若宮さまの顔を眺められてから、居合わせた母宮さまに仰いました。
「ところで、内裏に長い事顔を出しておりませんし、他にも色々と気がかりなこともあるので、今日は久しぶりに出かけるつもりなのですが」
 かるく眉をよせて、
「私の妻ともう少し近くでお話しできないものでしょうか? あまりにも他人行儀に過ぎませんか」
 と続けられました。母宮さまも、
「仰る通りです。酷くやつれているとはいえご夫婦なのだから、あまりに取り繕うばかりではおかしいですわね。常に物越しというのも……」
 そう仰って、御方さまが臥しているすぐ近くに席を設えさせました。ヒカルさまは早速几帳の内に入られ、御方さまに話しかけておられました。
 時折聞こえる御方さまのお返事は、蚊の鳴くようなかぼそいお声でした。けれどもはや助かるまいと誰もが思ったあの時に比べれば、夢のような回復ぶりでございます。ヒカルさまも、
「……いや、お話ししたいことはまだ沢山あるけれど、無理はいけないね」
と話を止められました。それから御薬湯を用意させ、手ずから御方さまを抱き起して飲ませるなど、細々とお世話をなさいます。いったいいつの間にそのようなことを覚えられたのかと、私たち女房も感心する程の手際の良さでございました。
 御方さまはまだ産後の疲れから抜けきらず夢うつつといったご様子で、なよなよと臥してらっしゃるお姿はましていじらしく、愛らしゅうございました。一筋の乱れもなくさらさらと枕にかかる髪も比類ないうつくしさで、流石のヒカルさまも目が釘付けになっておられたようです・
「院にお目にかかったら、なるべく早く退出してきますね。このように隔てなくお逢い出来るのは嬉しい。……正直申しますと、いつも母宮さまがベッタリ付き添っておられたのでどうにも居づらくて、これまで遠慮しいしい過してきたのですよ。少しずつ気持ちを強く持って、早くいつもの御座所に戻られますように。いつまでも親に甘えて頼ってばかりでは、夫婦らしくなれませんし」
 此処でこのような素直なお気持ちを言葉にされたのは、ご結婚以来初めてのことだったかもしれません。身支度を整えて出立されるヒカルさまの凛々しいお姿を、臥所からいつになく目を凝らし、お見送りしておられた御方さまのご様子を今も覚えております。
 
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