葵 九(中将のおもと 三)
この頃の六条の御方さまは、明らかに普通の状態ではございませんでした。何事もなく一日過されることは殆どなく、始終わたくしを呼びつけられ、日取りも頓着せず髪を洗わせたり無暗にお召し替えをされたり、ずっと手を洗い続けたりと、ご自分でもどうにもならない、そうせずにはいられない強い思いに囚われておられました。
「お願い……駄目なの。この衣装も駄目……匂いがするの。髪のせいなのかもしれない。いえ、手なのかしら」
「御方さま、おもとには何も匂いませんよ。先ほどお手も御髪も洗ったばかりではございませんか」
「いいえ……! 駄目よ。お水を持ってきて! 洗いたいの」
「それ以上洗われたらお肌も荒れてしまいますよ。何もついておりませんし、臭くもありません」
何度この会話を繰り返したでしょうか。わたくしの言葉は御方さまの耳には入らないようでした。
「髪も……手も……身体のそこらじゅうに染みついている……! 芥子の香りが」
「芥子?」
御方さまははっとして、わたくしの顔をまじまじとご覧になり、
「いま、何を言ったのかしら。わたくし」
「お疲れなのですよ。このところ殆ど眠っておられないでしょう? よく眠れるという御薬湯を用意しましたから、お召しになって少しでもおやすみください」
「おもと……誰にも言わないと約束してくれる……?」
「何をでしょう」
「わたくしの身体から、芥子の香りがすることをよ!」
御方さまの目は大きく見開かれました。焦点が合っておりません。
「眠れない……眠るとわたくしがわたくしではなくなる。ふわふわと宙に浮いて、まるで何かに引き寄せられるような感じがして……いつも同じ部屋、同じ女君がいるのよ」
「御方さまが何処かへ出かけられるなどあるはずがございません。この中将のおもとがちゃんと見ておりますので」
御方さまは左右に激しく首を振りました。
「そうじゃない……そうじゃないのよ。わたくしは……わたくしは祓われている……! 加持祈祷の声が煩くて、煙がもうもうと纏わりついてきて……締めつけられる……」
「夢でございますよ。どんなに寝付けない夜でも、人は案外眠っているもの。酷く疲れていて眠りが浅い時には悪夢を見るものでございます。どなたでもそうです。さあ、御薬湯を」
御方さまが一口、二口と飲まれた時、遠くで人の声がいたしました。口上の声と女房達の応対とで、どうやらヒカルさまの所の御使者だと分かりました。きっとまたいつものようにお手紙だけ届けに来たのだろう、今の御方さまに申し上げることでもないと決め、さあもう一口お飲みくださいと促したその瞬間でございました。
「……男の御子さまがお産まれになりまして、当分の間は外出なさらないとの仰せでした」
まあそれはおめでたいこと、宜しくお伝えくださいませね等と社交辞令で応え送り出す女房の声が続きました。
御方さまは大人しく御薬湯を飲み干され、臥所に身体を横たえられました。聞こえていなかったのだろうと思い、黙ってその背中に夜着をかけますと、肩が小刻みに震えております。
泣いていらっしゃる?
違う。
「うふふ、ふふ。ふふふ。生まれたのですって? 男の子? うふふふふ」
「御方さま」
「うふふふ、何だかね、笑いが止まらないの。だって、可笑しいでしょ?」
御方さまはすこしこちらを向かれましたが、乱れ髪で顔が殆ど隠れておりました。ほの暗い几帳の内で、髪の隙間から目だけがぎらぎらと光ってみえます。
「ヒカルさまのお子さまが産まれただなんて、嘘。嘘にきまっている。だって……わたくしが、この手で、」
御方さまの手が一度ぐん、と上がったかと思うと、ぱたり、と落ちました。正体を失われたのです。余りに突然だったので慌てて息を確かめましたが、ただ深く寝入っていらっしゃるだけでした。
ここ数日お疲れのようでしたし、このままそっと寝かせて差し上げましょうと一同しめしあわせ、ごく静かに過ごしておりました。もちろんわたくしは常に御方さまのお傍に詰めておりました。何もおかしなことなど無かったのです。本当に、何も。
参考HP「源氏物語の世界」
<葵 十につづく>
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