葵 十三(中納言 五)
御方さまが亡くなられて以来初めて、桐壺院のもとに参内されることになったその日。車が引き出され前駆の者などが集まる間に、折よくぱらぱらと降り注いだ時雨を、木の葉を散らす風が慌ただしく吹き払いました。御前に居合わせた私たち女房は皆無性に心細くなり、この頃は少し乾く間もあった袖が再び湿っぽくなる始末でした。
その晩はそのまま二条院に泊まられるご予定とあって、侍所の人々も彼方で待つことになるのでしょう、各々続々と出立していくので、今日が最後というわけではないにせよ本当に寂しく感じられました。
左大臣さまも大宮さまも悲し気にその様子をご覧になっています。ヒカルさまが大宮さまの元にお文を出されました。
「桐壺院も大層ご心配されていらっしゃいますので、今日は参内いたします。こんなちょっとした外出につけても、よくぞ今まで生きながらえて来られたものよと、悲しみにかき乱されるばかりの心地がいたします。このような状態でそちらにご挨拶に伺うのも何なので、このまま出立いたします」
大宮さまはますます涙にくれ、沈み込んでしまわれてお返事もなさいません。
左大臣さまはすぐお見送りに出ていらっしゃいました。まだまだ涙が堪えきれず、顔から袖を離すことがお出来になりません。周りで見守っている女房たちも思わずもらい泣きをする程でございました。
ヒカルさまも涙を零されますが、さほど取り乱すことはなく優美に振る舞ってらっしゃいます。左大臣さまは長い時間をかけてようやく涙を抑えると、
「歳を取ると、大したことでもないことでさえ涙もろくなるものでございますのに、まして今は涙の乾く暇もなく、かき乱されている心を落ち着かせることなど出来ず、人目にもお見苦しく心弱いように思われるでしょうから、まだまだ参内は出来そうにありません。何かのついでで結構ですので、どうぞ院にはそのようにお執り成しください。余命いくばくもない身で、娘に先立たれたのが辛くて堪らないのです」
かろうじて平静を保たれながら仰るご様子は誠に痛々しく、ヒカルさまも度々鼻をかみつつ、
「後に残されたり、先立ったりすることの定めなさは世の習いとはよく承知しておりますが、いざ我が身に起こってみると想像以上に悲しく辛いことでした。院にもこのような状況を奏上すれば、きっとご理解いただけることでしょう。
さて、時雨も止む間もなさそうだし、日暮れないうちに……」
そろそろ出立を、と周りもそれとなく促しますが、左大臣さまは尚も心の内を涙ながらに訴えられます。
「遺された幼子がいるのだから、いくら何でも何かとお立ち寄りにならないはずがない、などと自らに言い聞かせておりますが、女房の中には今日を限りに見捨てられる過去の家だと悲観する者もございまして。いや、それは流石に浅い考えとは存じますが……永遠の別れへの悲しみより、ただ時々に親しくお仕えした歳月が跡形もなく消えてしまうことを嘆いているようです。それは私にもわかる気がいたします。貴方が此方で心底くつろいで過ごされたことは遂にございませんでしたが、それでも何時かは……と空頼みしてまいりましたのに。本当に、心細く感じられる夕暮れでございます」
私たち女房は、几帳の裏や障子の向かいなど開け放された場所で、三十人ばかりひとかたまりに座っておりました。皆濃い薄鈍色の喪服を着て、この世の終わりのような面もちでいるものですから、ヒカルさまもいたたまれないお気持ちになられたのでしょう、
「それは……あまりにも浅い嘆きですね。実際私も、そのうちどうにかなると気長に構えておりました頃は、何の気なしにご無沙汰をしてしまった折もございましたが、こうなった以上訪れない理由などございません。どうか今からの私をご覧になってください」
などと弁解されつつ、ようやっと出立されました。左大臣さまはお見送りの後邸に入られましたが、
「何だか蝉の抜け殻のように空っぽな感じがするなあ……部屋の設えや飾りに、何も変わった所はないはずなのに」
と呟かれるのでした。
御帳台の前に、ヒカルさまが使われた硯がそのままにしてありました。手習いの書き損じを散らかしてあったのをお手に取られて、目をすぼめつつご覧になっていらっしゃいます。心を打つ古の詩歌が、唐といわず日本といわず、仮名や漢字、他さまざまな珍しい書体で書き散らされており、若い女房たちは悲しい中でも思わず微笑みを誘われておりました。左大臣さまは、
「見事な御筆跡だ」
と空を仰がれながら眺めていらっしゃいます。
「旧き枕故き衾、誰と共にか(白氏文集、長恨歌より)
亡くなった人の魂もますます離れがたく悲しく思っている事だろう
共に寝た床を私も離れがたく思うのだから
※なき魂ぞいとど悲しき寝し床の あくがれがたき心ならひに」
「霜の花白し
貴方が亡くなられてから塵の積もった床に
涙を払いながら幾夜独り寝をしただろうか
※君なくて塵つもりぬる常夏の 露うち払ひいく夜寝ぬらむ」
一日だけの命なのでしょう、枯れた常夏の花が添えられておりました。
左大臣さまはこれらを大宮さまにお見せしながら、
「今更言っても詮無いことはさておき、このような悲しい逆縁の例は世間にありがちなことと強いて思おうとしてきたが……親子の縁も長く続かなかった、一体何のために、心を惑わせるためにあの子は生まれて来たのか、と考えれば考える程辛い。前世の因縁か何かがあるのかもしれないと、無理やり自分を納得させようとしても、日が経てば経つほど堪えがたくなるばかりだ。何よりあの大将の君が今日を限りに他家の人になってしまうのが何とも残念でたまらない。一日二日とお見えにならず途絶えがちでいらしたのすら、物足りず胸を痛めていたというのに、まして朝夕の光を失って、どうして生きながらえていけようか」
と、お二人で声も抑えきれずお泣きになります。すぐお傍に控えている年配の女房たちも胸を突かれ、わっと泣き出してしまいました。何ともうすら寒い夕暮れの情景でございました。
一方で若い女房たちは所々に群れて、お互いに悲しい胸の内を語りつつ、進退を相談しあっておりました。
「殿のお考えどおり、若君をお世話することが慰めにはなるとは思いますが、あまりにも幼過ぎる形見ですわね……」
「しばらく里に下がって、また折をみて参上しようかしら……」
今を時めくヒカル大将の北の方に仕えるのと、母の亡い乳飲み子のお世話をするのとではかなり事情が違ってきます。乳母役のできない未婚の女房たちにしてみれば、お役御免だと判断しても致し方のないことでしょう。こちらはこちらで残る者去る者があり、互いに別れを惜しむなど物悲しい場面は少なくありませんでした。
私のお話はひとまずこれにて終わりとさせていただきます。若君のその後などはまた、別の機会に。
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