おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

葵 十二(中納言 四)

2019年8月26日  2022年6月8日 
大殿では亡き葵の御方さまのための法事が次々と行われましたが、ヒカルさまは正日(四十九日)が過ぎるまでは、とずっと引き籠っておられます。ここまで長く此方に留まることなどついぞ無いことでしたので、義兄である三位中将(頭中将)さまがヒカルさまの徒然を慰めるという名目で、毎日のように大殿に立ち寄ってくださいました。お二人で軽口を叩いたり真面目に議論したり、下世話な話に笑ったり、また世の無常を思って泣いたりなどしながら、要はお互いに心を癒しあっておられたのだと思います。
 時雨がぱらつくしみじみとした夕暮れのこと、いつものように中将の君がいらっしゃいました。鈍色の直衣、指貫を薄い色に衣替えしたお姿は誠に凛々しく、眩しい程の男ぶりでございました。
 ヒカルさまは西の妻戸の高欄に寄りかかって、霜枯れの前栽を眺めていらっしゃいました。風が荒々しく吹きすさび、時雨がさっと降りかかると、
「雨さえ涙と競うようだ。あの方はもう雨となり、雲となってしまったか。もう今となっては何もわからないのだな……」
 頬杖をつき独りごちていらっしゃいます。中将の君はそのお姿に、
「うーん……もし自分が女で、ヒカルみたいな男を残して先立ったなら、魂になっても此の世に留まっちゃうだろうな……」
 呟かれながら近くに座られました。ヒカルさまはくだけた服装ながら、直衣の入れ紐だけを差し直されました。こちらは中将の君よりも少し濃い目の夏用直衣に、紅色の光沢のある下襲というお姿で、地味ではありますが却って見飽きない感じがいたしました。
 中将の君も悲し気なまなざしを向けつつ歌を詠まれます。
「妹が時雨となって降る空の浮雲を
 何処にいるのかと眺め分けようか
 もう行方もわからないが」
「亡き妻が雨となってしまった雲居さえ
 時雨でかき曇って何も見えない」
 ヒカルさまが返す歌には、葵の御方さまに対する浅くない心持ちがはっきりとうかがえました。
「不思議だ。ここ数年来、そこまでの気持ちがあるようには見えなかったけどな。夫婦仲は桐壺院までが見かねて口を出されたくらいだし、左大臣への態度は我が父ながら気の毒になるレベルだったし。母の大宮の血筋からすると切っても切れない、無下に捨てるわけにもいかないしがらみのキツイ結婚で、ああ大変そうだなあって同情してたくらいなんだけど……結局のところ、妹を正妻として重く考えてくれてはいたんだね」
 中将の君はすこし涙ぐみながら、誰に言うともなく呟かれました。そうと分かると尚更惜しまれてなりません。私たち女房も皆、光が消えたような気持ちで何かにつけ寂しくてたまりませんでした。
 中将の君が帰られた後ヒカルさまは、枯れた下草の中に咲き出した竜胆や撫子などを折らせて、若君の乳母である宰相の君に持たせ、
「草の枯れた垣根に咲き残る撫子の花を
 秋に死に別れたお方の形見と思って見ています」
という歌を詠まれました。若君の頑是ない笑顔の隣で母宮さまは、風に舞う木の葉より脆い涙腺を崩し、泣き伏して手に取ることさえお出来になりません。
「今みても却って涙に暮れてしまいます
 垣根も荒れ果ててしまった撫子なので」

 日もすっかり暮れた頃、ヒカルさまは大殿油を近くに灯させ、雑談でもしない? と私たち女房を何人かお傍に呼び寄せられました。こういう場で、誰にでも分け隔てなく、色めいた素振りどころか好き嫌いさえ毛ほども見せないヒカルさまのお心遣いには、何時も感心させられます。ただ美しく聡明な貴公子だからというだけではなく、そういう細やかなところがどなたにも好かれる最大の理由でございました。
「この数日は、誰も彼も他に気を取られることもなくお互い密に顔を合わせていたよね。だけど今後はきっとここまで皆一緒にはいられなくなると思うと悲しくない? 喪中だからってだけじゃなく、考えてみると他にもあれこれと悲しい種が沢山あるものだね」
 ヒカルさまのお言葉に皆ますます涙を誘われます。私も思わず
「今更申し上げるまでも無いことですが、御方さまがお亡くなりになったことは、誠に心も真っ暗に閉ざされたような心地がいたします。かてて加えて、ヒカルさまがもう一切此方には来られないだろうと考えますと……」
 一息に申し上げようとしましたが、涙で最後まで言い切れません。ヒカルさまは寂しげに苦笑いなさって、
「一切って、そんなにバッサリはい終了、なんて出来る訳ないよ。そこまで薄情だと思われていたんだね私は。酷いなあ、もう少し長い目で見てくれる人がいればいつかはわかって貰えるだろうけど、命は儚いものだからね。明日どうなるかなんて誰にも分らない……」
 ふと視線を外し、灯りを眺めるヒカルさまの目元は濡れていらっしゃいます。あまりの尊さに、皆言葉を失うのでした。
 とりわけ御方さまに可愛がられていた少女・あてきは親も無く、心細い気持ちでいるのを見抜かれたのでしょう、
「これからは私を頼ることになるのだよ」
 そう仰って涙を零されます。小さい衵を誰よりも濃く染めて、黒い汗衫や萱草色の袴といった、いたいけな姿には誰もが胸を痛めました。
「亡き妻を忘れがたい人は、どうか寂しさを堪えて、幼い若君を見捨てずお仕えしてくれないかな。生前に仕えていた女房達がすっかり出て行ってしまったなら、私が尋ね来る縁もなくなってしまう」
 そう仰って、皆に末永く大殿に留まるよう勧められますが、
「とはいえ、これまで以上に疎遠になることは避けられないだろう」
 というのが表立って口にできない私たち女房の認識でございました。
 左大臣さまはそんな私たちの心持ちを慮ってか、身分身分に応じて、ちょっとした趣味の御道具から本当の形見となるような物までさり気なく心を配りつつ、一同に下げ渡してくださいました。
参考HP「源氏物語の世界
<葵 十三につづく>
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