葵 十一(中将のおもと 四)
ただ噂ばかりはぽつぽつと耳に入ってまいります。母君が今にも後を追わんばかりに沈み込まれ寝こんでしまったので、周囲が心配して祈祷などさせていること。悲しみの余りさまざまな法事の準備をするにも何かと滞ってばかりいること。掌中の珠として大事に育ててきた一人娘を若くして亡くされたのですから、わたくしたちにとっては確執のあるお家とはいえ、流石にお気の毒としか思えませんでした。
ですので、ヒカルさまが殆ど外出もされず、大殿に籠って毎日勤行三昧と聞いても、此方では怨むどころか当たり前のことと弁えておりました。むしろ、このようなやむなき理由で距離を置かざるをえない状況は、御方さまの心身をすっかり落ち着かせたのです。
朝ぼらけの霧が立ち込める中、まだ人少なな早朝に目立たぬようさりげなくお文を置かせたのも、常日頃の御方さまの人となり、品格からの自然な行動でございました。菊の咲きかけた枝に結んだ濃い青鈍色の紙には、いつもにも増して優美な筆跡でこう書きつけておられました。
「お手紙すら差し上げなかった間の事はお察しいただいておられることと思います
人の世の無常を聞く(菊)につけ涙が零れますが
先立たれた貴方の袖はさぞ濡れておられるでしょう
ちょうど今朝の空をみて、偲びかねて」
御弔問としては少々そっけなくはありますが、お身内でもないのに大袈裟に悲しんでみせたり、あまり直截に気の毒がったりは相応しくないでしょう。双方のお立場を考え、差し出がましくならない範囲で精一杯の弔意を伝えておられる、とわたくしには思えました。
それから少し間を置いて、ヒカルさまからお返事が届きました。鈍色がかった紫の紙でしたが、受け取られ中身をたしかめた御方さまの顔色がさっと変わりました。どうかされましたか、とお傍に寄りますと、御方さまの手から滑り落ちたお文が目に入りました。
「すっかりご無沙汰いたしております。常に心にかけてはおりましたが、このたび喪中につきお察しいただけるものと。
生き残った者も亡くなった者も同じ露のようにはかない世に
執着しても仕方のないことです
其方も強すぎる思いは消した方が良さそうですよ。誰にも見られないだろうと思いつつ書きました」
なんということでしょう、よりによってこんなことを書いて寄越すなんて……わたくしはすぐそのお文を目につかない所に仕舞いましたが、いちど見てしまったものを取り消すことはかないません。御方さまは
「やはり……やはりそうだったのね……わたくしのせいなのだわ……このたびの御不幸は」
お顔を覆ってしまわれました。
「何を仰います! そんなはずあるわけございません! ヒカルさまこそ気落ちする余りにおかしくなっていらっしゃるんです、御方さまお気をたしかに」
「もしもこんな噂が立ったらどうしたらいいのかしら……桐壺院にも何と思われるか。亡き夫、前の春宮とは同腹の御兄弟という以上にたいそう仲むつまじくいらして、この斎宮のことまで細々とお気遣いをいただいていたというのに」
「そんな馬鹿々々しいお話、院が真に受けられるはずがございません」
「よく仰っていらしたのよ……
『亡き春宮の代わりとなって私がお世話いたそう。そのまま内裏に住まいなさい』
と。そんな畏れ多いお勧めを繰り返しいただいていたというのに、年甲斐もなく恋愛沙汰に身を投じて無暗な悩みを増やした挙句、こんな不名誉な噂で名を汚されるなんて……」
御方さまはそれきり何を申し上げても耳に入らない体で、貝のように口を閉ざされてしまいました。
幸いにと申しますか、この日頃は斎宮さまのことで何かとご多忙ではありましたので、物思いに沈んでいる暇などございませんでした。前々から世間では、奥ゆかしく風雅の才に長けた貴人として名高かった御方さまです。斎宮さまとともに野々宮に移る際も、当世風で趣深いやり方を多く考案され、風流を解する殿上人たちがこぞって、朝な夕なに露を分け通われたものでした。御方さまが現し世を疎んで伊勢に下ってしまわれれば、惜しむ方、寂しがる方は大勢いらしたと思います。ええ、ヒカルさま以外にもきっと。
参考HP「源氏物語の世界」
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