しゃぼんだまによせて 三

もしもし、高橋ですが。どうもどうも、いつもお世話になってます。この前お会いしたのは七月でしたっけ? 今日からもう九月、早いもんですなあ。
 ええ、まあぼちぼちってとこですか。おかげさまで取り扱いも増えてきましたしね。いやいや、投資した分が幾らか戻ってきた程度ですよ。とんでもない。
 松宮さんこそ、洋行なすってたんでしょ。いかがでした? 最新式の蓄音機は。
 ああ、そんなに素晴らしい音が。そりゃ凄い。いいですねえ、此の耳で聴いてみたいもんだ。ははは。そういうわけにも。ときにお値段は?
 はあそりゃまた。うーん、まだまだ手が出せませんな。ええ、お互いに。
 ところであれ、見ていただきました?
 ええ、そうなんです。二冊とも借り物だから、現物をお渡しするわけにいかなくて、うちの社員にタイプして貰って。ええ、楽譜は手書きです。読みづらくてすみません。本物は可愛らしい絵もついてます、しゃぼんだま遊びをしてる子供とか。兎に角この手の本は発行部数が少ないもんですから探すのが大変で。特に「金の塔」の方は、版元に問い合わせてももう原版がないっていうんですよ。いや本当に、持つべきものは坊主の友ですな、ははは。
 そうです! なかなかのものでしょ? 流石お目が高い。童謡を広めようって人はこのところ沢山出てきてはいるけど、これは大人が聴いても遜色ない水準ですよ。私はそう思います。
 蓄音機がどんなに良くなっても、聴く音楽がないとねえ。特に子供向けはまだまだ少ない。
 ああ、文部省のですか。まああれはね……悪くはないですけど、作詞作曲者が一切秘密ってのがちょっと。やはりちゃんと個人の業績というものは表に出してやんないと。彼らはおまんま食うためだけにやってるんじゃないんだから。お上からのお仕着せはダメなんです、お仕着せは。
 あはは、仰る通り。私から反骨心を抜いたら何も残りやせんです。
 真に子供のための歌、子供の心を歌った歌、自然に子供に口ずさんでもらえる歌っていうのが童謡、なんだそうですよ。これは家内からの受け売りですが。
 いやいや先生っていってもちょっとした手伝いだけで、ピアノが弾けるもんだから。学校に置いてあった本に載ってたんだそうです。
 子供にこそ、質の高い、歌いやすい、本物の音楽を与えてやりたいもんですな。大人になっても、小さい頃に覚えたことは忘れないものですから。なんて、子無しの私が言うのも何ですがね。
 そうそう、アメリカじゃあ「ラヂオ」ってやつがあって、電波が届く所なら何処でもニュースや音楽が聴けるっていうじゃありませんか。蓄音機どころじゃない、日本でも屹度広まりますよ、間違いない。
 ええ、ええ。先達になりたいもんですねえ、できるなら。松宮さんていう強い味方もいらっしゃることだし。え? 商売敵ってまたまたそんなこと。一緒にやりましょうよ、そのうち。ねっ。
 おっと、どうもさっきから腹の虫が五月蝿いと思ったら。長々と喋りすぎました。はい、はい。またご連絡しますからね。では、また。

 クルクルと磁石式電話機のハンドルを回す。程なく電話交換手に繋がった。
「終わったよ。いつも有難う」
「こちらこそいつもご利用有難うございます。回線をお切りします」
 カチリ。
 事務所の柱時計の針は、十一時五十五分を指していた。今日は土曜日で半ドン、そろそろ仕事も仕舞いだ。
 弥一郎は大きな伸びをひとつすると、おい、一緒に昼飯を食べていく奴はいるかと問いかけた。手を挙げた数人のうち一人が、浅草公園の何某という洋食店が安くて美味かったと言い、では其処にしようと皆がカバンを手に立ち上がった。
 その時。
 大正十二年九月一日、十一時五十八分。

<参考>
音の歴史とビクター(社内研修用) 日本ビクター株式会社 人材開発センター

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