葵 四
「女房ちゃんたちも行くよね?」
と言いつつ、この日のために可愛らしくおめかしした姫君に目を細める。
「さあこちらへおいで。楽しみだね」
いつもより艶々しいその髪をかき撫でる。
「そういえば長い事切ってないね。今日は髪削ぎには良い日なのかな」
と言って、暦の博士を召し出して時刻の吉凶を調べさせる。
「まずは女房達から出発ね」
というので皆バタバタと支度に忙しい。晴れ着姿の子供たちがわらわら集まってきた。その美しく削いだ髪の先が、浮紋の表の袴にかかるほど長いのが見てとれる。
「あなたの髪は私が」
とヒカルが手ずから削ぐ。
「何と長く伸びたものだ。これは削ぐのが大変。この先どんなに豊かで美しくなるだろうね、楽しみだ。
髪がすごく長い人でも、前髪はちょっと短めにしてるよね。全く後れ毛がないパッツン切りも味気ないから……うん、こんなもんかな」
何だかんだで器用なヒカル、さっくり削ぎ終わって「千尋」と言祝ぐと、傍に付き添っていた少納言は
「まことに勿体ないこと」
と恐縮する。
「限りなく深い海の底に生える海松のように
豊かに伸びてゆく髪を私だけが見届けよう」
ヒカルの歌に、
「千尋と仰いますが本当なのかどうか分かりませんわ
潮の満ち引きのようにとらえどころのない貴方のお心と同じように」
とさらりと書きつけている様子は大人顔負けだが、一方で背伸びした初々しさも感じられ、きゅんとするヒカルであった。
大通りは今日もまた物見の車でごったがえしていた。馬場殿の辺りに止めようとしたが、
「上達部たちの車が多くて、何かと煩そうで面倒だな……」
とためらっていると、派手に袖口をこぼれ出させている小奇麗な女車からすっと扇が差し出された。供人を招き寄せて、
「こちらにお止めあそばせ。場所を空けますから」
というので、
「おお、どこのおひとり様女性だろう???」
などとやや興味と期待とを抱いたヒカル。場所も絶好だったので、車を引き寄せ
「こんな良い場所をどうやってお取りになったのでしょうか。お羨ましい」
声をかけると、風流な扇の端を折って渡して来た。
「あら残念、他の方とご同乗なのね。
神の許す葵祭、今日という機会を待っていましたのに。
注連縄の内にはとても入れていただけそうにありませんわね」
その筆跡は誰あろう、かの源典侍だった。
「マジかよ騙された……相変わらず若作りだなあ……」
と一気にテンションダダ下がりのヒカル、能面で返す。
「そう仰る貴方の心こそあてになりませんよ。
かざす葵の葉はひらひらと、誰彼となく靡いてらっしゃるのでしょう?」
典侍は動じない。
「あーら酷い仰りよう。
悔しいけれど今日の葵は『逢う日』ではなく所詮はただの草葉なのですね。
期待はずれでしたわ」
典侍に限らず、簾を下げたままのヒカルの車を訝しむ向きは多かった。女性が乗っていることは明白だからである。
「この間のヒカル大将、スッゴイ素敵だったけど、今日は完全プライベートで見物なのね。お姿が見られなくて残念。でも一体何処の誰がご一緒なのかしら……きっと超絶美女にちがいないけれど」
と外野はアレコレ詮索せずにはいられない。
「つい乗せられてつまらぬ歌争いをしてしまった……」
後悔しきりのヒカルだったが、こんなシチュエーションで気安く声をかけてくるのは典侍ばりの鉄面皮でないと無理なので、その後は誰にも邪魔されることなく快適に見物を楽しんだのだった。
ここまで一見呑気な感じに見えますが、「葵」前半に出て来るエピソードは全てが伏線といっても過言ではありません。あの車争いの後の、この行動。若紫はもちろん何の関係も無いですし、ヒカルとて全く悪気はないですが、いざ外からどう見えるかを考えると、少々配慮が足りないようにも思われます。ましてこの時20代前半のヒカル、平安時代においてはもう若者とは言えない歳です。自分がどれだけ注目される存在かは御禊の日にはっきりしたわけですから、せめてこのタイミングでの女連れとわかる外出は慎むべきだったでしょう。
コメント
コメントを投稿