葵 五(中将のおもと 一)
申し遅れました、わたくし中将のおもとと申します。覚えておいででしょうか? ヒカルさまが御方さまの元からお帰りになる朝、お見送りがてら歌のやりとりをさせていただきました(夕顔の巻)。この一連の騒動について、御方さまの名誉のために少し語らせていただきたく存じます。
そもそもの初めから、御方さまは乗り気ではございませんでした。軽くはないご身分とお立場ですから、何かと注目を浴びる、十近くも年下のヒカルさまと恋のさや当てなど、一番避けたいことだったでしょう。遂に若い情熱に根負けした後でも、何処か躊躇う気持ちが消えることは無かったと思います。つかの間の、お幸せだった時間さえ悩みの種になりましたのに、だんだんと間遠になり、冷めていくお心を肌で感じられる日々はまして尚のこと、それみたことかと誰あろうご自分自身を責めておられました。
もう終わったものととっくに諦めてはおられたのです。ただ、あのような酷い出来事の後でさえ、今日を限りと断ち切って伊勢に旅立つまでのお心を決めることは、中々お出来になりませんでした。
「子にかこつけて逃げたのだと、きっと人は嗤うでしょうね……」
かといって、このまま何もなかったように京に留まり続けられるか、と申しますとそれも無理でございました。
「あの車争いで、どんなに自分が見下されているか思い知ってしまった……とてもこのまま心穏やかに暮らすことなどできません。『釣り人の浮き』のようにふわふわと拠り所のないわが身だこと……」
寝ても起きてもくよくよと思い煩っておられるせいか、どことなく影が薄く覇気のないご様子でした。
伊勢に下るという話は程なくヒカル大将のお耳にも入ったようでしたが、断固として引き留められるわけでもなく、
「私のような物の数にも入らない男、見るのも嫌だと棄てて行かれるのも無理はないですが……そんなどうしようもない私でも、最後までお見限りなさらないのが浅からぬ情愛というものでは?」
などと、何だかんだ絡んでこられるものですから、御方さまにすればますますどっちつかずの不安定な心持ちが強くなるばかりでございました。だからこそあの御禊の日は、せめて少しでも気分が晴れるようにと強いてお出かけになったというのに、禊の河はあまりにも流れが激しゅうございました。やすやすとは消えない疵を刻み込まれ、そのお苦しみはますます強く、根深いものとなってしまったのです。
北の方のご容態が良くないとの噂は聞こえておりました。大殿の辺りでは誰も彼もご心痛のあまり外出もされず、名高い僧や修験者をかき集めて夜昼なく御祈祷に余念がないことも。かの桐壺院からもたびたびお見舞いがあるようで、つくづく左大臣家のご威勢は凄いものよと……
ごめんなさい、正直申しまして少しいい気味だと思ってしまいました。あのような、他人を貶め辱めるような真似を家来にさせて平気でいられるお家ですから、性質の悪い物の怪も憑きましょうよと。ええ、もちろん誰もあからさまに言葉に出したりはいたしませんでしたけど。
その頃御方さまもご不調が一向によくならないので、少し場所を移して御修法などさせておりました。ごくごく内々に決めてのことでしたのに、何処から聞きつけられたか、ヒカル大将おん自らいらしたのには驚きました。
「随分とご無沙汰してしまって、誠に申し訳ありません。何せ大殿の方がまだバタバタしてましてね。そこまで心配するほどのことでもないと思うのですが、向こうのご両親がことのほかご心痛で。さすがに放置するわけにもいかず、もう少し落ち着いたらと思っているうち日が過ぎてしまいました。万事おおらかにお許しいただければ嬉しいのですが」
長々と言い訳をしつつも、やはり例の事件のことがあって来られたのでしょうね。気を遣ってらっしゃる様子がこちらからもありありと見てとれました。
お互いにどこか空々しく、ぎくしゃくとしながらも、その晩は泊まっていかれました。ところが、明け方に出立されるその姿のあでやかなことと申しましたら比類なく、一同ただただ溜息をつくばかりでございました。やはり御方さまには相応しい男君と何気なく申し上げると、
「北の方が身ごもられている以上、あの方のお心はもうそちら一つに収まるのです。この先はもうないの。待っても詮無いこと」
言い聞かせるようにそう仰いつつ、また新たな物思いに沈んでしまわれました。
御方さまの言葉通り、ヒカル大将からは
「ここ数日少し回復したように見えた病人が急変いたしまして酷く苦しそうなので、到底目を離すわけにもいかず……」
と、そっけない後朝の文だけが夕方に届きました。
「袖を濡らすような辛い恋路と初めからわかっておりましたのに
自らそこに降り立ってしまったわが身が疎ましい
まさに『山の井の水』ですわ」
※悔しくぞ汲みそめてける浅ければ袖のみ濡るる山の井の水
御方さまのご筆跡はいつも通りそれは素晴らしいものでございましたから、とてもなおざりには出来なかったのでしょう、すぐにお返事がありました。
「袖ばかり濡れるとはどうしたことでしょう? 愛情の深さが足りないのでは?
浅い場所に立っておられる人の前で
私は全身ずぶ濡れになるほどの深い恋路(泥)に立っております。
並々ならぬこの気持ちを直に伝えずにはおれませんでした」
……何と酷なことを。これではどんな女であっても、すっぱりと思い切ることなど到底出来なくなる。お逢いしない方が良かったのではないか……古参の女房として、強くお諫めするべきだったか……などと思い乱れ、背筋がうすら寒くなったことを覚えております。
参考HP「源氏物語の世界」
<葵 六につづく>
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