葵 六(中将のおもと 二)
誰が言い出したのか酷い噂が流れており、何処からともなく御方さまの耳にも届いてしまわれました。
「わたくしは自分の身の不運を嘆いているだけで、他人が不幸になればいいなどとは露ほども思っていないのに……」
生霊などと……と呟かれてからしばらく間があり、御方さまは俯いたまま低い声で仰いました。
「ただ……思いが高じて身体から抜け出ていく、という感覚は何だかわかるような気がする。ふわふわと浮いているような、雲や霞を踏む心地がして……いつのまにか何処か知らない場所にいるの」
「御方さまはずっと此処にいらっしゃいますよ。私たちが請け合います。夢でも見てらしたんですよ」
「違うのよ、違うの……あの、車争い……あの日の出来事が繰り返し、そっくりそのまま目の前に見えるの。通り過ぎるヒカル大将の行列、馬の蹄の音、立ち並ぶ車、乱暴に割り込んできて物が壊れる音、聞くに堪えない叫び声、笑い声……あの時の悔しい、恥ずかしい、いたたまれない気持ちがそのまま。それから、何も解らなくなって」
「夢でございますよ」
「夢……そう、夢にちがいないのだけれど……とても清らかに整えられたお部屋の中に、若く美しい方が寝てらっしゃるの。何故だか無性に腹が立って、憎らしくて、そのお部屋をあちこちひっくり返したり汚したり……それどころかその女の方を強く叩いたりして……生まれてこの方一度もしたことがないような狼藉を」
「ただの夢にございます。さあ、もうお休みになって」
「いいえ、夢などではなくてよ。魂が身を離れて出て行ったの……こんなことが本当にあるなんて。なんと忌まわしい……」
わたくしは少し離れた場所に控えている別の女房に目配せして、御薬湯の用意をさせました。御方さまは目を大きく見開かれ、体中を震わせておられます。そっと寄り添い、背中をゆっくりと撫でさすりながら考えました。
(困ったことになった……何でもない事すら大仰に騒ぎ立てて、良い噂は立てないのが世の常なのに、ましてこのようなことが外に漏れたら格好の餌食だ)
あたたかい御薬湯ですこし落ち着かれた御方さまは、先ほどご自分が仰ったことは忘れたかのように、
「死霊となって恨みを晴らすなどという話はよく聞くけれど、故人に対して大変失礼だし罪深いことね。まして現し身のわたくしが、そのような噂を流されるとは、一体どういう理屈なのかしら」
いつもの気丈なご様子に戻られて
「とにかく、もうあの薄情なお方のことは一切思い出さないようにするわね」
と微笑まれました。
わたくしも、他の女房達も、このお言葉にほっと胸を撫で下ろしたのですが……思うまいと思う、そのことじたいがまた物思いの種となることに、この時は誰も気づいておりませんでした。
去年のうちに内裏に入られるはずだった斎宮さまは、様々な障りによりこの秋まで留め置かれておいででした。九月になればそのまま野の宮に移られるので、再び御禊の準備を始めなければなりません。ただ、斎宮寮の官人たちは、母である御方さまの心身の状態が普通でないことを非常に重く見ており、何かにつけて祈祷などを絶やしませんでした。
大殿の辺りは、然程良くも悪くもならないまま日々が過ぎ、ヒカル大将も間をおかず通われていたようでございます。あれ以来お立ち寄りになることはございませんでした。
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