花宴 四
例によって正妻・葵の上はなかなか顔を出さない。どうにも居心地がよくないのを紛らわすのに筝の琴をかき鳴らし、
「やはらかに寝る夜はなくて」
(貫河の瀬々の やはら手枕 やはらかに 寝る夜はなくて 親離くる夫 親離くる夫は ましてるはし しかさらば 矢矧の市に 沓買ひにかむ 沓買はば 線鞋の 細底を買へ さし履きて 表裳とり着て 宮路かよはむ(催馬楽-貫河))などと催馬楽の一節を歌っていると、舅の左大臣がやって来て、あの桜の宴がどんなに素晴らしかったかを滔々と語り出す。
「いやー、本当に素晴らしかった! この歳になるまで、御代四代にわたって見てきましたが、今回ほど優れた漢詩文、整った舞や楽、楽器の音色にて寿命の延びるような気持ちになったことはついぞありませんでした。それぞれの道においてなみいる名人の中から、よくもあれだけ精選され揃えられたものです。この爺もついつい『出でて舞ひてむ』(=出て行って舞いたいような)心地がいたしましたぞ」
(翁とてわびやはをらむ草も木も栄ゆる時に出でて舞ひてむ(続日本後紀巻十二-三))「殊更に変わったことをしたわけではないですよ。ただお役目として、名高い音楽の師をあちこち尋ね歩いたまでのこと。それより御子息の『柳花苑』は誠に後々の好例となるに違いないとお見受けしましたが、さらに父君も『栄ゆる時』に倣って参入されたなら、それこそ一世一代の舞となったでしょうに」
などと、自らは謙遜しつつ、左大臣の息子・頭中将の舞をも持ち出して舅の気分を上げるだけ上げるヒカル。
そこに左中弁や頭中将の君も加わり、高欄に背を寄りかからせつつ、とりどりに持つ楽器で演奏をはじめる。実に素晴らしいセッションとなった。婚家との交流としてそれはそれで楽しいものだが、クールすぎる夫婦仲は相変わらず解消されないのだった。
弥生三月の二十日過ぎ、右大臣家では弓の結(けち)……射手を左右に分け交互に弓を射させ勝負すること……に上達部や親王たちを多く集め、その後藤の宴を執り行った。
桜の季節は過ぎたものの「他の花が散った後に」と教えられたか、遅れて咲く二本の桜がとても美しい。新築の御殿を、姫宮たちの裳着の儀式の日にあわせて磨き飾り立てている。派手好みな家風のようで、何事につけても今時な感じのもてなし方であった。
(見る人もなき山里の桜花他の散りなむ後ぞ咲かまし(古今集春上-六八 伊勢)当然人気絶頂なヒカルも招待していたが、一向に来る気配がない。いやヒカル王子抜きじゃ始まらないでしょ!宴の華には欠かせないメンツ!とばかりに、子息の四位少将をお迎えに参上させる右大臣家だった。
「我が屋敷の藤の花がその辺によくあるような色ならば
なぜ貴方をお呼びしましょうか。いやホント凄いから!来て来て!」
ちょうど内裏にいたヒカル、帝に奏上した。
「これはまた自信満々だね(笑)。わざわざお迎えまで寄越してきたことだし、早く行ってやったら? あの家の女の子たち、裳着の祝い終わったばかりだからそのお披露目も兼ねてるんだよね。ヒカルは内裏住みの間行き来があったから、向こうも身内のように思っているのだろう」
あまり仲良くもない右大臣家だが仕方がない、帝がそう仰るならと不承不承を装うヒカル、内心は「有明ちゃんの正体を探索するチャンース!」とばかりに、殊更気合を入れて用意をし、日もとっぷりと暮れる頃までたっぷり待たせて参上と相成った。
直衣は桜色の唐織、葡萄染めの下襲、裾は大仰に長く引く。他の人々がカッチリ正装の袍を着ている中、絶妙に崩したスタイリッシュな大君姿で、丁重に迎え入れられる姿はまさに主役登場といった趣。今を盛りと咲き誇る花も色を無くす、すべてを掻っ攫うイケメン☆キラキラオーラ炸裂っぷりであった。
趣向を凝らした舞や音楽などを心ゆくまで楽しみ、夜も更けゆく頃、ヒカル王子は酔っぱらった風を装いスルスルと移動。
目的の地は勿論女子たちが集う、女一宮と三ノ宮がおはす寝殿である。東の戸口からそっと寄りかかるヒカル。藤の花はこちらの隅にあるので、格子を一面に上げ渡し、誰も彼も端近に出てきていた。まるで踏歌見物の時のように、御簾からはみ出させた女性たちの袖口が華やかだが、いくらくだけた場とはいえその身分を考えると相応しくない、軽率な振舞いだ。そこに付け入っておきながら、藤壺の奥ゆかしさと比べずにいられない身勝手なヒカルなのだった。
「ふう、もう飲めない……なのに、まだまだ!と強いられて参ってます。恐縮ですが、こちら様の物蔭にでも隠れさせてください」
とかなんとか言いつつ、妻戸の御簾を引き被ると、
「あらまあ、何てこと。身分の低い人ならば高貴な縁を頼って来ると聞きますが?」
などと返してくる方を伺うと、ノリは軽めだが並の若い女房ではない、品良く情趣を解する風情がひしひしと感じられる。
空薫物が煙いくらいに立ちのぼり、衣擦れの音もあからさまに、心憎く奥ゆかしい雰囲気には程遠いとにかく今時で派手好きな家らしく、高貴な身分の方々も外の様子がよく見えるこの辺りに席を占めているようだ。こんなに大勢の人の目があるところで迂闊な真似をするわけにもいかないと思いつつも、やはり気になって仕方がない。
「有明の君は何処にいるんだろう……」
と胸をドキドキさせながら
「『扇を取られて辛き目に』あいました」
(石川の 高麗人に 帯を取られて からき悔する いかなる 帯ぞ 縹の帯の 中はたいれたるか かやるか あやるか 中はいれたるか(催馬楽-石川))と、何気ない風を装って更に近づき、座り込んだ。
「取ったのは扇? 一風変わった高麗人ですわね」
そう答えるのは全く事情を知らない人である。何も答えず、ただ時々溜息をつく気配を察し、そっと寄り添って几帳越しに手を掴むヒカル。
「月の入る山の中でさ迷っています
ほのかに見た有明の月の影がまた見えるのではないかと
何故でしょうね?」
とダメ元でカマをかけると、我慢できなくなったのか
「本当に思いをかけてくださる方ならば
空に月が出ていなくても迷うことはないでしょう」
その声!キタね!思わず笑みをこぼすヒカル王子であった。
参考HP「源氏物語の世界」
「窯変 源氏物語」橋本治
<次は「葵」の段ですが、一旦戻って桐壺をやります>
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