2016年1月21日木曜日

若紫 十

 同じ日、邸には少女の父・兵部卿宮が訪れた。
 ここ数年来すっかり古びて、人も減り、荒れた雰囲気が隠せない広い邸を、父宮はひととおり見渡しながら言った。
「幼い子が住むようなところではないね。やはり私のところにおいで。けっして窮屈なところではないよ。乳母も、部屋を貰って仕えるといい。若い人たちもいるから、姫君と一緒に仲良く遊んでくれるだろう」
 姫君を近く呼び寄せてみると、ヒカルの移り香が馥郁とひろがる
「ほう、よい匂いだ。服はすっかりくたびれているけれど…。
長いこと、病がちな老人とばかり過ごさせてしまったね。早く引き取ってこちらに馴染ませようと思ってはいたが、尼君が変に疑って疎んじていたので、妻も手をこまねいていたのだよ。亡くなってからこんなことを言うのも心苦しいことだが」
「いえいえ、心苦しいなどと…ですが姫君は、今は心細くともしばらくこのままのほうがよろしいかと思います。もう少し物の道理がおわかりになるまで成長されましてから、そちらに行かれたほうが、うまくいくかと」
 乳母の少納言が静かに言う。
「今は夜となく昼となく、お祖母様を恋しがって、ちょっとしたものもお召し上がりにならないのです」
 そのせいで姫君は面窶れをしていたが、それがまた上品で可愛らしく、かえって見栄えが良いほどだ。
「どうか、もうそんなに悲しまないで。亡き人にあまりこだわりすぎるのも良くないことだよ。この父がついているのだから」
などと慰める父宮だが、日が暮れれば自分の邸に帰ってしまう。姫君が帰り際に、寂しいですーと泣くので、父宮もついもらい泣きをして
「どうか、あまり思いつめないようにね。今日明日のうちに、きっとお迎えに来るよ」
と繰り返しなだめすかし、やっとのことで出立される。

 父宮がいなくなると、姫君は誰も慰めようがないくらい泣き沈んでいた。我が身の将来のことまで思い至ってのことではないが、ただ長年かたときも離れることなく一緒にいたお祖母様が、今は亡き人となってしまったのが幼心にもたいそう悲しく、胸がふさがって、いつものように遊ぶこともしない。昼間はそれでも何とか紛らわせているが、日暮れともなるとひどくふさぎこんでしまう。いったいどうしたものかと慰めあぐねる乳母にしても、涙をこらえきれない。

 ヒカルの命をうけ惟光が様子を見に来た。
「私自身が伺うつもりが、内裏よりお召がありまして。本当に申し訳ない。気になって仕方ないのですが」
と伝え、宿直役の人も一緒に寄越した。

「情けないことですわ。お戯れにしても、ご結婚のはじめにこのような仕打ちとは」
「父宮さまがお耳にされたら、側仕えの者の落ち度として責められましょう」
「ああ大変。何かの拍子に、うっかり漏らしてしまっては何としよう」
など女房たちは口さがないが、当の姫君はなんとも思っていないのがまた困ったことである。

 少納言は惟光に、ヒカルの真意を探るべく愚痴る。
「ヒカル王子と姫君の間には、将来にわたって切っても切れない宿縁がたしかにあるのかもしれません。ですが今現在は、まったく不釣り合いなお話とお見受けします。どうしてそんなに姫君のことを思ってくださいますのか、これからどうなさるおつもりなのか、わたくしはどう対処すべきなのか、判断できず悩んでおります。
今日も父宮さまがいらして
将来不安がないように、よく姫に仕えてください。あまり幼い子扱いはしてくださるな』
と釘を刺されました。かなりプレッシャーですわ。今まではただ放ったらかされておりましたのが、今後はこのような、よその男のかたとのお手紙のやりとりや、ご訪問といったことにも、改めて目を光らせ配慮しなければならないので」
といいつつも
(惟光さんに、ヒカル王子と姫君の間に何かあったのかと思われては、それも不本意だわ…)
と考えてもいたので、あまりあからさまに嘆くようなことはしない。惟光のほうは、よく事情がわかっていない上に、少納言に奥歯にものが挟まったような言い方をされ、怒られているのか単に愚痴られているのか、イマイチ腑に落ちない。

 帰参した惟光がとりあえずそのまま報告すると、ヒカルは少納言の気持ちを察して、ああしまったなと反省する。が、だからといって普通の女相手のように三日通って正式に結婚、というのも、相手が相手なのでおかしな感じだし、だいいち軽々しくひと目につくようなことをすると、すぐに噂の種になってしまう。
やはりあの姫君は、自分の邸に迎えるべきだ
と決意を新たにするヒカルであった。
 それ以降、手紙は頻繁に出し、夕暮れにはいつも惟光を遣わす。
「差し障りがあって伺えませんが、どうかお許しを」
などと書きつけて。

 そんなある日、訪れた惟光に対し、少納言が口早にこう言った。
父宮さまより、明日姫君をお迎えにまいりますと急なお知らせが来ましたので、気ぜわしくてなりません。長年住み慣れた蓬生の宿を離れますのもさすがに寂しく、お仕えする人々も思い乱れております」
 邸の人々は皆、忙しそうに縫い物などしている。誰もかれも、ろくに返事もしないので、惟光は諦めて邸を辞した。

<若紫 十一につづく>
参考HP「源氏物語の世界」 

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