おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

「語学の天才まで一億光年」「遠い日の戦争」「愚行録(小説)」

2024年7月4日  2024年7月4日 

  お暑うございます。しかし去年ほどではない?気がしている。だって読書がはかどるもの(エアコン効いたところ限定だけど)梅雨が遅かったせいか?


「語学の天才まで一億光年」高野秀行(2022)

 当ブログではおなじみの高野さん(「世界の辺境とハードボイルド室町時代」「謎の独立国家ソマリランド」等)、この本もまた超絶面白かった。ほぼ同年代のお方なので、当時の大学生がどんな感じだったかというのが、この破天荒なお方の目を通してでも窺い知れる(そのころのワセダのイメージも合致(笑))。しかし同じ内部生・外部生の話でもこの間の「愚行録」でのそれとは全然まったく何もかもが違う。早稲田と慶応の違いはあるにせよ、この方も一種の「天上人」じゃないのかなあ。だって安易に真似できない唯一無二だもの。誰かに言われた通り・周囲に合わせて・見えているゴールに向かう(これはこれで大変だし尊いことではある)、みたいなところからはむしろ積極的に外れていくこのスタイル、そりゃあマウントも何もない。自分のやりたいことだけ徹底してやる、という人生はある意味最も負荷が高い、圧倒的なパワーが必要なことではあるのだ。

 高野さんの語学習得術は、端的にいえば

「まず以て主目的があること」

「言語は道具。如何に有利に事を運ぶか・目的を達成するかに必要なアイテムと心得ること」

「短期集中」

「その言語しか使えない環境に身を置くこと」

「教えてもらうなら出来ればネイティブ、特に日常語を習うこと」

「予習ではなく復習を徹底すること」

「ネイティブの話を(雑談含め)録音して、そっくりそのまま真似すること」←シャドウイングみたいなもんか

 どれも決して目新しい内容ではないけれど、これ全部その通りに実行するって尋常じゃない。それが出来ないからいつまでたっても出来ないねん!という極めてシンプルな結論に達する。うわああああん(泣いてないで何かしろ)。

 さて高野さん曰く、こうして習得した25あまりの言語も使わなければ(主目的を達成して用済みになれば)あっという間に錆びて喋れなくなるらしいが、それほど多くの言語を実地で使ってきたことの意味は相当大きい。ここまでやってこそ真の「肌感覚」というものが得られるんだなと感心しきり。どういう言語を使うかで人は変わる、その国の特色は言語から由来するところ大きい、という説にも頷かされてしまう。言葉は道具だと高野さんは言い切られたが、なかなかどうして強力な武器にもなり盾にもなりうると実感。「言霊」はやはりあるんだな。


「遠い日の戦争」吉村昭(1984)

 こちらも前々から読みたかった本。米兵捕虜を処刑した面々が上から下まで戦犯として罪を問われる立場となった。その状況に納得いかず逃走した青年・清原琢也の話である。

 フィクションとはいえいつもの吉村昭さんである。膨大な資料と調査を下敷きに、おそらくご自分の体験も含め、リアルに肉薄していこうとする姿勢自体に感動をおぼえる。

 ここでも読みながら私の中に出て来たのは映画「関心領域」。未見の人に感想を述べたら

「でも、それは当時そうしないと生きていけなかったからでしょう?」

 と言われた。それは違う、仕方なかったということじゃない、積極的に踏み込んでいっているんだ、と反論をしたものの、相手が未見ということもあってどうもうまく言えなかった。

 以下ネタバレにつき注意。


「上官の命令によって米兵捕虜を処刑したこの男は有罪か無罪か?」

 と問うなら、やはり無罪ではない。相次ぐ空襲の悲惨を見聞きして、憎しみを滾らせ、名指しされたわけではなく自身で申し出て「能動的に」手を下したこと。組織ぐるみの隠ぺいに手を貸したこと。この辺はやはり償うべき罪ではあるのだ、死刑はやりすぎにしても。

 映画を観る前だったならば、完全にこの主人公に感情移入し味方していたかもしれない。しかし、匿ってくれていた後輩の父の言葉、

「いつまでも逃げられるわけがない。自分から出て行って、申し開きをすべきだ」

 此方のほうが全然正論に聞こえる。琢也の場合、逃げて時間を稼いだことにより戦犯への処遇がいくらか和らいだタイミングで捕まり、死刑までは免れた。ただ、残された家族に、特に父親に取り返しのつかない心の傷を負わせてしまった。郷里の家族にも、匿ってくれた恩人たちにも顔向けができない。

 米国への憎しみも、ふがいない国家への怒りも、責任逃れ上官に対する義憤も、軍人としての矜持も、その日暮らしの逃亡生活で擦り切れて薄まってしまい、ただただ「捕まらないこと」「殺されないこと」だけが目的と化した。結果的に命は助かったがこの後どうやって生きていったのだろう。勿論自己責任というには酷な状況だった。しかし全部戦争のせい!国のせい!と言い切ってしまえるほど単純でもない。この生真面目な主人公ならばきっとそうはならないだろう。何とも言えない気持ちになる。戦後日本はこういう人が大勢いたんだろうな。

 印象的だったエピソード:主人公が小倉で「広島原爆の炸裂音」を「紙を裂いたような音」と聞く場面があった。ちょっと想像がつかないが、これ元ネタは何だろう?主人公と同じ「防空情報主任」という職務の人の談話なり何なりがあったんだろうか。それとも軍とは関係ない一般人の話なのか、吉村さん自身の体験なのか、もしくは全くの創作なのか、気になる。


「愚行録」貫井徳郎(2009)

 此方はこの間観たばかりの映画の原作。一気読みしてしまった。

 映画とは違って一人一人が語る形式。インタビュアーがどこの誰なのか、一見事件と関係なさそうな女の正体は何なのか、最後まで読むとわかる仕組みになってる。もちろん映画を観ていれば初めから気づくのだが、それでも引き込まれた。

!!!以下ネタバレにつき注意!!!

 

 色んな人が殺された二人の話をする。映画には出ていないエピソードもいくつかあったが、ものの見事に「二人より上」の人がいない。非常に狭い、小さなハコの中で必死にマウントをとり、勝ち取ったトップの座。いやハコ内ですらトップかどうか怪しい。常に自分より下の存在を「作って」おかないと保てない人生は楽しいだろうか。そしてそこまでやっても結婚相手は似た者同士の田向(コイツも人心操作系)、結局ハコの外には出られない。友希恵が現状に満足していなかったのは料理教室のエピソードからもわかる。相も変わらず「誰もが羨む幸せ」を懸命に演じている、ように見えた。

 犯人が友希恵に殺意を抱いた理由が、

友希恵の巧妙なマウントと女衒的な操作により多数の男にもて遊ばれた」

ことではなく、

「現在の友希恵の暮らしがあまりにも自分の求めていた人生そのもので、

『自分はこれから先も絶対にこんな風にはなれない』

と思い知らされた」

 ことというのがあまりにも皮肉。友希恵が自身を守るため・マウントを取るため被っている/いた「ガワ」に犯人が強く依存した(依存するよう友希恵が仕向けた節もある)結果、凶行のトリガーとなった、という解釈で合っているだろうか。

 映画の方はそのトリガーをとある一つのシーンで表現してみせているんだけど、あれは「以前と変わらない態度で接してきた」方がよかったんじゃないかな。その方がずっと怖いし、原作の解釈通りだと思う。

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