おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

「ブッダという男」

2024年3月6日  2024年3月6日 

 人生初のコロナ罹患でおこもり中です。明日からお買い物は行ける感じ(当然ながらマスク着用の上無言で)。寒いから家にいること自体はいいんだけどさー家人もリモートなんで音出せないしドラマや映画観られない。つら。ということで各所怒涛のテキスト更新かける所存(要は暇)。


「ブッダという男 ー初期仏典を読みとくー」清水俊史(2023)

 Twitter(x)で見かけて気になったので読んでみた(そういうの多し)。新書でさして厚くもない本だが読了するまでそれなりに時間かかった。浄土真宗盛んな地域に生まれ育ったものの、私はあまりにも仏教に対する知識がないと折に触れて思い知らされる。何千年も頭のいい人がこぞって考え抜き議論をたたかわせ打ち立ててきた宗教ですもん、半端ないですわ!などと小学生以下の感想を述べるしか出来ることがない。とはいえ文章は非常に論理的で気持ちよく、読みやすい。すぐにすっと理解できてどんどん次に進めるか?というとそんなことはない。人によると思う。

 この本をひとことでいうと「人間としてのブッダ」をより当時に近い姿で浮かび上がらせる試み。その試み自体は目新しいことではないらしいが「歴史問題として扱われた」ブッダは、「研究者たちが己の願望をブッダという権威に語らせてしまった」だけで、真の姿とは到底いえない「新たな神話」が誕生したにすぎなかった(19世紀)という。ここらへんは、歴史学者・呉座さんも繰り返し書いていらっしゃる「時代ごとの思想・フィクションによる歴史的人物・出来事のイメージ変遷および改ざん」の図式が思い起こされる。神話的存在を脱却して学問的に実像を見極めようとしたけど別のバイアスかかっちゃいました、というのはありがちな話なんだろうな。そりゃ人間、自分の生きてる時代のことしかわかりませんもの。いや、それすら全貌を理解し尽くしてるかといったらそんなことはない。そも今の時代がどういう時代かなんて、終わってみないとわからないことも多々あるし。難しいね。

 それはともかく、全体的に丁寧な論の組み上げ方、きっと何回読んでも完全に理解したとは言えないだろうけど、この感じは好きだ。これぞ人文知。私も精進しなくては、いい年なんだし。

 以下、いつものように個人的に面白いなと思ったところ、覚書メモとしてまとめておく(例によってぜんぜん間違っとる!誤認識!な可能性も大ありのありなので鵜呑み禁止、流し読みでヨロです)下線や強調は私によるものです。


・仏教はバラモン教と対立する沙門仏教のひとつとして生まれた。生まれではなく行いを問えとブッダは説いた。輪廻や解脱といった世界観は共有。どうやって果てのない輪廻から脱け出すか、の辺りにブッダの先駆性がある。

・「解脱した者は死後に再生するのか?」の問いにブッダが沈黙を守った理由:

個体存在は五要素(色・受・想・行・識)に分解される→要素それぞれは「未来に生起しない性質のもの」である→つまり解脱した者=完成者(如来)となった五要素は死後に存在しない

これら「解脱に資する仏教的な思考法」による分析なしにただ「存在する/しない」で答えることは解脱に資さず、かつ誤解を生む恐れがある。

→問いそのものが「間違った立てられ方をした質問」なので「答えない」が正解

・ブッダは「自己原理」の存在を否定。業と輪廻の世界観を受け入れながらも、来世に何かが影響するという考え方には与さず、現世での努力や精進が重要であるという立場をとった。

・ブッダは個体存在の五要素と同じように、現象世界の成り立ちを分析。全宇宙が六つの認識器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)とそれに対応する六つの対象(色・声・香・味・触・法)という十二要素から構成され、そのいずれもが無常であり、恒常不変の自己原理ではないと主張。これが「一切」であり、これを超越するような存在はない

・ジャイナ教では輪廻の主体として霊魂がある、そこに「業」が錆のように付着している、苦行により払わねばならないと説いた。ブッダは苦行を否定。個体存在は原因と結果の連鎖によって過去から未来へと輪廻する、その輪廻の根本原因は煩悩であり、これが来世を生み出す促進剤である。つまり煩悩を断てば積み上げられた業もすべて不活性化するとみなした。

・輪廻の苦しみを終わらせるためには「無知(無明)」をはじめとする煩悩を断じなければならない、という主張は他宗教にはみられない。この「縁起の逆観」こそインドにおけるブッダ創見であると評価できる。

(覚書ここまで)


 書いてみて気がついた。この本そのものが輪廻のなかにいながら煩悩(無知)を断つような構造を目指してる。何を言ってるのか自分でもよくわからんけどひらめいた。多分この感覚もすぐに消える。だから書いておく。

 それにしても万物を性質別に要素に分け、互いに動き影響しあって自己なるものを形づくっているだけで「恒久不変の自己」なんてものはない、という考え方は、古代インドにおいて一体何をどう思索したらひねり出されてくるんだろうか。物凄く理性的というか、頭悪い言い方すると理系頭な印象。哲学から派生して様々な学問が生まれ出たというし、何がどう影響してここに至ったのかはわからないが、高レベルの頭脳が行きつく真理は似通ってくるんだろうか。

 この本、ガッチガチの理系の人こそ読んでみてほしい気がする。ド文系の私では見えないものが、何らかの科学を専門とする人たちにはスっと入ってくる部分が多々あるんじゃなかろうか。私がここでいうまでもないことかもしれないけど。

 仏教って凄いわ本当に。

 ただこの本が出るまでのスッタモンダを考えるに、まあなんといいますか……まだまだ解脱には遠いんだろな。

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