幻 四
七月七日、七夕。
この日も例年とは違い、管弦の遊びも催さず、一日中何もせずに過ごすヒカル。星逢いの空をともに眺める人はもういない。
まだ夜が深い時刻にふと目が覚め、妻戸を押し開けると、前栽が一面露に濡れている。そのまま渡殿に出て歌を詠む。
「七夕の逢瀬は雲上の別世界としても
後朝の別れの庭に露が置き添う」
八月。
風の音が耳につく頃合いだが、上旬までは一周忌の準備に忙殺され多少は気も紛れた。
(もう一年経ったのか。よくもよくも今まで過してきたものよ)
時の流れのあまりの速さに、途方に暮れるばかりだ。
命日である十四日には、上から下まで全員が精進潔斎し、例の曼荼羅図を供養させた。
いつもの宵の勤行の際、手水を持ってきた中将の君の扇に、
「主を慕う涙は際限もありませんが
今日は何の果てだというのでしょう」
と書きつけてある。ヒカルは手に取って、
「人を恋い慕う我が身の余命も減りつつあるが
涙はまだまだ残りが多いね」
という歌を書き添えた。
九月。
九日に着せ綿をした菊を見て詠む。
「ともに起き居をしていた菊の白露も
今は独り袂にかかる秋かな」
十月、神無月。
時雨がちな季節にますます気が滅入る。夕暮れの空の色にたまらなく心細くなり「降りしかど」と独りごちる。
※神無月いつも時雨は降りしかどかく袖ひたす折はなかりき(源氏釈所引-出典未詳)
雲間を渡る雁の翼も羨ましく見守る。
「大空を通う幻
夢にさえ現れぬ魂の行方を尋ねてくれ」
どうあっても忘れられるはずもない。むしろ月日が経つほどに恋しさが募る。
十一月。世間は五節だ何だと華やかに浮足立っている頃、童殿上するという夕霧の子息たちが叔父の頭中将、蔵人少将に連れられて六条院を訪れた。二人の子は同じくらいの年回りで大層愛らしい。付き添う大人は青摺の小忌衣(おみごろも)を身に纏い、こちらもすっきりと感じが良い。
何の屈託もない若者四人の姿に、ヒカルはその昔のひそかな恋を重ね合わせる。
「宮人は豊明へと急ぐ今日
私は光も影も知らずに暮らしている」
(今年いっぱいどうにかやり過ごした。今こそ)
出家の覚悟は決まった。同時に寂しさも募る。心中には徐々に準備を進め、女房たちにも各々の身分に応じて形見分けをした。仰々しくアピールはしないが、傍近く仕える者にはいよいよと察せられ、今年が日一日と暮れゆくのも心もとなく侘しいこと限りがない。
ヒカルは側近の女房二、三人ほどを呼び出した。
元より人目に触れるのが憚られるような手紙類は「破れば惜し」と思うものだけ残して、少しずつ処分していたが、この際すべて破らせることにしたのだ。
※破れば惜し破らねば人に見えぬべし泣くなくもなほ返すまされり(後撰集雑二、一一四四、元良親王)
その中に須磨・明石にいた頃の手紙があった。特に紫上からのものは一束にまとめられている。
(そうだ、他とは別扱いにしておいたんだよね。もう遠い昔のことなのに……今さっき書いたような墨の色、まさに千年の形見にも出来そう。世を捨てるならもう見ることはない。取って置いたところでむなしいことだよね)
さほどの関係ではなくとも故人が残した手蹟を見るのは悲しいものである。まして最愛の紫上―――ヒカルの頬を涙がとめどもなく流れ、文字をなぞるように落ちていく。
(いけない、女房達に何と意気地ないことと思われてしまう)
俯いたまま、手紙の束を前に押しやる。
「死出の山を越えた人を慕いながら
残した跡を見てなお悲しみに惑うとは」
女房たちは手紙を引き広げてしげしげ見ることはなく、淡々と作業をしていたが、紫上の筆跡はさすがに目の端でもそれとわかる。破る手が止まってしまった。
須磨や明石――思えばさして遠くもない――に離れて暮らしていた間、思いのたけを言の葉に寄せ歌を詠んだ紫上はもういない。
(胸が痛い……辛くて堪えられない。何と情けない、まだこんなに心が騒ぐなんて。こんな女々しい姿を人に見られたくない)
ヒカルは、その手紙の傍らに歌を添えた。
「かき集めて見ても何の甲斐もない
涙に濡れたこの藻塩草(手紙)も同じ雲居の煙となれ」
そして女房たちに命じた。
「ぜんぶ焼いてくれ」
と。
師走。
六条院にて仏名会が催された。これも最後と思えば、聞き馴れた錫杖の音も身に沁みる。「院の御寿命、末永く」と請い願う僧たちの声を仏がどう聞いておられるか、もう世を捨てる気でいる私なのに、と醒めた心持ちのヒカル。
その日は大雪で一面真っ白であった。法会を終えて退出してきた導師を御前に呼び、酒肴も例年より手厚くもてなして、格別な禄も下賜した。長年六条院に出入りし朝廷にも出仕している馴染みの導師は、いまや髪も白くなった。親王や上達部たちも例年通り大勢参上している。
わずかに綻んだ梅の花が雪の中で際立って美しい。管弦の遊びに良い折ではあるが、やはり本年中は楽の音にも咽び泣いてしまいそうな気がして、折節に合う詩歌を口ずさむ程度におさめた。
導師へ盃をすすめるついでに詠む。
「春までの命もあるかどうかわからないから
雪のうちに色づく梅を今日のかざしとしよう」
返しは、
「千代の春を見るべく貴方の長寿を祈り置きましたが
我が身は雪と共にふり(降り・経り)ました」
他にも多くの人が詠んだが省略する。
この日、ヒカルは久しぶりに人前に出た。顔も姿も昔と変わらないどころかますます光が増して、この上なく尊い。年を経た老僧は涙を禁じ得ない。
大晦日。
今年も暮れると思うと一気に心細くなったヒカル。
「
と走り回っている三の宮を見ても、
(この可愛らしい姿をもう見ることもなくなるのか)
やたらに涙が滲む。
「物思いして過ぎる月日も知らぬ間に
年も我が世も今日で尽きるか」
元旦。「すべてを例年より格別に」と命じる。親王たちや大臣への引き出物、各身分への禄も今までになく大盤振る舞いしたとか。
参考HP「源氏物語の世界」他
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