おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

横笛 二

2021年6月6日  2022年6月9日 
模造 螺鈿紫檀五絃琵琶
模造 螺鈿紫檀五弦琵琶:ColBase

 さて夕霧大将である。
 亡き柏木の言い残した言葉を繰り返し思い出しながら、
(どうやって父院から聞き出すか……思い当たるところはある。あるけど、だからこそ切り出し方が難しいよね。いったいどんな機会を以て事の真相を明らかにし、かつ柏木が如何に思いつめていたかを伝えるか……)
 考え込むが、なかなか踏ん切りはつかない。

 物寂びた秋の夕べ、夕霧は一条宮邸を訪ねた。
 此方でもくつろいで琴など弾いていた頃合いだったようだ。招き入れられた南廂の間にそのまま置かれていた。女二の宮も端近にいたのか、奥にいざり入る気配がはっきりとわかった。衣擦れの音、焚き染められた香に、夕霧の心は騒ぐ。
 例によって母御息所が対面し昔語りをする。
 夕霧の住む三条の邸は、一日中人の出入りが激しく賑やかで、幼い子供たちがわらわら寄り集まって喧しい。比べると此方は余りにひっそりと静まり返っている。やや荒れた感じはするがそこは皇統の二人、品良く住みなしている。前栽の花が、虫の音に満ちた野辺のように乱れ咲き、夕陽に照り映える。
 夕霧は和琴を引き寄せた。律に調音されよく弾き馴らしてあって、今使っていた人の移り香も窺える。
(こんな趣深い邸に、自制心も何もないチャラ男が目をつけたら、即口説きにかかって悪評を立てるようなことになったりするんだろうな。私はそういうのとは違う)
 と思いつつ、柏木愛用の和琴を掻き鳴らす。秋の風情を感じさせる曲を弾きさして、
「思い出しますね……比類なき音を掻き鳴らされた亡き人を。この和琴にもその名残がありましょう。どうかお聞かせください」
 というと、御息所は
「宮は、琴の緒絶えた後……夫に先立たれて以来、昔の子供遊びの名残をさえ思い出すこともなくなってしまったようです。朱雀院の御前にて女宮たちがそれぞれ得意の琴を披露された折にも、中々の評価を賜ったものですが、今はうって変わってぼんやりと物思いに耽るばかりにございます。このような楽器すら悲しみの種になるようですわ」
 と答えた。
「ごもっともです。『限りだにある』その悲しみに限りがありますように」
恋しさの限りだにある世なりせば年へてものは思はざらまし(古今六帖五、二五七一、坂上是則)
 溜息とともに和琴を押しやった夕霧に御息所は懇願する。
「そこに亡き方の名残があるならば……ああ、たしかに音色の中に伝わることもあると聞き分けられるように弾いてくださいませ。物思いに沈む込むわたくしたちの、せめて耳だけでも明るくなるように」
「ご夫婦仲に伝わる音色こそ格別なものにございましょう。それをこそお聞かせください、と申しております」
 夕霧は和琴を御簾近くまで寄せたが、すぐに承諾されるはずもない。それ以上強くは勧めなかった。

 月が差し出て曇りなき空に、羽をうち交わす雁の群れが整然と列を作って飛んでいく。宮はその羽音を羨んだか、冷えびえと吹く風に哀れを催したか、筝の琴をほのかに掻き鳴らした。あまりに奥深く、あまりに微かな音。強く心を惹きつけられた夕霧は思わず琵琶を引き寄せた。この上なく優しい音色で「想夫恋」―――亡き夫を思う女の曲―――を弾く。

「訳知り顔に恐縮ですが、これならばご一緒出来るかと」

 と御簾の内に催促するが、現状に嵌り過ぎる曲だからこそ手が出ない。夕霧が 

 「言葉に出して言わないこと(琴)が『言うにまさる』と

 貴女の慎み深い態度からは窺えます」

心には下行く水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる(古今六帖五、二六四八)

 と詠みかけると、ようやく終わりの方だけ僅かに弾いた。宮本人から返歌もされる。

「秋の夜の情趣は存じておりますが

こと(琴)あり気な顔で弾いたでしょうか」

 もっと聴いていたいような、のどやかな音色であった。先人が心をこめて弾き伝えて来たこの調子と曲がぞくっとするほど身に沁みる。僅かばかり掻き鳴らしてすぐに止めてしまったのが残念で、

「お恥ずかしながら風流めかし、さまざまな楽器を弾かせていただきました。秋の夜長を過しては亡き人に咎められましょうから、そろそろお暇致します。また後日改めてお伺いしますので、この琴の調子はそのままにお待ちください。とかく弾き違うこともある世の中ですから、気がかりで」

 そこはかとなく心の内を匂わせる。母御息所は、

「今宵の風雅なお振舞い、誰もがお許し申すことでございましょう。埒も無い昔語りに紛らわせるばかりで、玉の緒に……何の取りかかりもなくお帰りなのが心残りにございます」

 と言って、夕霧への贈り物に横笛を添えて渡す。

「この笛、まことに古い由緒ありと聞いております。このような蓬生の宿に埋もれてしまうのも哀れにございましょう。御前駆の声と競うように響くかと、こちらから耳を澄ませておりますわ」

「なんと私には勿体ない随身……痛み入ります」

 柏木が肌身離さず愛用していた横笛である。

 ―――私じゃこの笛の最高の音は出せそうもない。誰か、これという人に伝えたいな。

 折々にそう言っていたのを思い出し、新たな悲しみが夕霧の胸に迫る。試しに、盤渉調の半分ばかりを吹きさした。

「亡き人を偲ぶ独り事(琴)は下手でも許されたでしょうが、この笛は流石に気が引けますね」

 そう言って出ようとする夕霧に、

「露めいた葎の宿で

 昔と変わらぬ秋の虫の声を聞きました」

 御簾の内から母御息所が詠みかけた。

「横笛の調べはこと(琴)に変わりませんが

亡き人を悼む声は尽きませんね」

 返歌をしたものの帰りがたく躊躇ううちに、夜も更けた。

 

 三条邸に帰ってみると、格子が全部下りて皆寝静まっている。

「殿は女二の宮にご執心で、あんなに熱心に一条宮をご訪問されるんですよ!」

 と、誰か注進したものがいるらしい。

(こんな夜遅くまで……知らない!)

 雲居雁は寝たふりをしたまま動かない。夕霧は、

「妹と我といるさの山の」

 と催馬楽を独り謡いながら、

「これはどうしたこと?こんなに厳重に戸締りして引き籠ってしまって。今宵の月を見ない里もあるとは」

 嘆息して格子を上げさせ、御簾を巻き上げさせて端近に横たわる。

「こんな素晴らしい月夜に気安く夢を見るなんて。ちょっと出てみたら?そんなにツンツンしてないで」

 雲居雁に声をかけるが反応はない。

 子供たちのあどけない寝ぼけ声がそこかしこから聞こえる。女房達も合間に挟まって寝ているのでとにかく人が多い。一条宮邸とは全く違う風景であり雰囲気である。

 夕霧は貰った横笛を吹きすさびながら、

(私が立ち去った後も月を眺めておいでだろうか。どの琴もあのままの調子で弾くのだろうな。母御息所も和琴の名手と聞くし)

 心は彼方へ飛んでいる。

(なぜ柏木は、女二の宮さまをあまり愛さなかったのかな。表向きばかりは丁重に扱っていたようだけど)

 不思議だ。

(やっぱり見た目がアレレって感じなのかな?だとしたらお気の毒だ。得てして世間の評判が良すぎると、実際には大したことないじゃんガッカリ、とかあるあるだもんね)

 思えば、妻の雲居雁とは何の駆け引きもなく、ただ幼い頃から続いてきた思いを結婚という形式で叶えただけである。

(途中数年離れたとはいえ、長いよね)

 共に過ごした年月を数えると感慨深いが、最初から距離が近いのでお互いに遠慮というものがない。雲居雁が、今や言いたいことを言うたくましい妻と化したのも、当然の帰結といえばそうなのだった。 


 そのまま寝入った夕霧の夢に、柏木が現れた。

 生きていた時そのままの袿姿ですぐ傍に座り、この横笛を手に取って見ている。

(なんと、笛の音を尋ねて来たか。厄介な)

 と思っていると、

「笛の音に吹き寄る風は同じことなら

私に繋がる者に伝えてほしい

 思う方とは違うんだよ……」

(何が違うんだ。誰に伝えればいい?)

 尋ねようとしたところ、うなされた幼子の声で目が覚めた。

 この子が泣きすぎて乳も吐いたので、乳母も起きて一気に騒がしくなった。雲居雁も灯りを近くに取り寄せ、額髪を耳に挟んで背中側に押しやるとさっと子を抱きあげた。張りのある豊かできれいな胸を開け、乳を含ませる。子供は色白でたいそう可愛らしい。乳はもう出ないが落ち着くようだ。

 夕霧も近づいて声をかける。魔除けの米を撒き散らすなど辺りは騒然として、夢の寂しさも紛れてしまった。

「ああ、可哀想ね……どなたかが若々しいご様子でフラフラなさって、夜更けの月を愛でようと格子を上げたものだから、いつもの物の怪が入って来たんでしょう」

 若く美しい顔で恨み言をいう雲居雁に夕霧は思わず笑って、

「なんと、私が物の怪を案内したと?そうだね、私が格子を上げなきゃ入ってこられなかったかもね。さすが、大勢の子の母だけあって思慮深いことを仰るようになったよ!」

 と切り返す。見つめるその目つきが気後れする程に美しいので、雲居雁もそれ以上言い返さず、

「もうあちらへ出てくださいな。見苦しい格好ですから」

 と明るく照らす火影に恥じらう。

(かわいいな)

 と夕霧も思うが、子供はその後もむずかって一晩中泣き止まなかった。

参考HP「源氏物語の世界」他

<横笛 三 につづく 

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