若菜下 五
朱雀院は女三の宮に琴の琴を教えてはいたものの、年若いうちに別れてしまったので、
「宮が此方に来る時には琴の音も聴きたいものだ。どんなに上達なさったろう」
と、内々ながら事あるごとに口にしていた。この話はいつしか内裏にも伝わり、
「あの院がそれほどに仰るのだ、さぞかし素晴らしい腕前なのだろう。院の御前にて披露されるのならば、是非私も聴いてみたい」
今上帝までが興味を示した。伝え聞いたヒカルは戦々恐々である。
「うーん。ここ何年かはもののついでにチョコチョコ教えてはいたけど、そこまで上達もしていないし、聞き応えのある名手!って感じでは全然ないからなあ。何も準備なしに彼方に参上していきなり、琴を聴いてみたい!さあ今弾いて!なんて言われたら困っちゃうよねえ。何とか恥ずかしくない程度には目鼻をつけてあげないと」
と、女三の宮の琴レッスンに本腰を入れ出した。
他との差異がわかりにくいように、あまり聞かないような珍しい曲を二、三。定番の大曲をいくつか。四季折々に音色が変わるように、空気の冷たさ温かさによって弾き方を調整することなど、高度な奥義の数々を手ほどきする。はじめは何とも頼りない風であった宮も、徐々に修得して、ぐんぐん腕を上げていった。気を良くしたヒカルは更なる高みを目指す。
「昼間は人の出入りも多くて雑音も多いし気ぜわしいんだよね。弦を揺すったり押さえたりして微妙に変わる音の違いを掴むには、やっぱり夜。それでこそ琴というものの真髄は見えて来るものだよ」
完全にスイッチが入ったヒカル。紫上の手前、この「女三の宮琴上達チャレンジプラン」という名目は都合がいい。何の遠慮も罪悪感もなく、夜な夜な彼方に渡るヒカルであった。
ヒカルは娘の明石女御にも紫上にも、ここまできちんと琴を教えたことはなかった。
「聴き慣れない曲目を練習させているらしい」
という話を漏れ聞いた女御はどうしても我慢しきれなくなり、滅多に許されることのない宿下がりを願い出た。
女御には既に子が二人いるが、またも身ごもって五か月ばかりになっていたので、内裏で神事の多い季節だから、と強引に理由をつけて退出を勝ち取った。十一日も過ぎれば、参内するようにとの矢の催促だが、このまたとない機会を逃したくない女御は動かない。
「毎夜毎夜、宮さまにはあんなに面白そうな琴のレッスンをお授けになって……お父様は何故わたくしには教えてくださらなかったのかしら」
妬ましくも羨ましい気持ちで胸が一杯の女御であった。
普通とは違い、冬の夜の月を好むヒカルは、雪を照らす月光におもむけた曲目を弾きつづける。女房達から楽の心得のあるものを選び出し、それぞれに弾かせてプチ管弦の遊びと洒落込んだ。
年の瀬ともなると、紫上は彼方此方の春の支度に自ら差配することも多く、多忙を極める。
「春ののどかな夕べにでもこの琴の音をゆっくり聴きたいものだわ」
と言い続けているうちに年が明けた。
朱雀院の五十の賀宴は、まず今上帝からはなやかに催される。ヒカル側はかち合わないよう少々日程を遅らせて、二月十余日と定めた。六条院には楽人や舞人が日参して、楽の音が絶えない。
「貴女の琴の音を、彼方の人たち……紫上がいつも聴きたがってるって言ったよね。せっかくだから他の人の筝の琴や琵琶を合わせて、女楽をやってみようと思うんだ。近頃の楽の名手どもといっても、なかなかどうしてこの六条院の面々の心意気には勝てないね。私は正式に伝授こそされたことはないけど、何事も知らぬことはないようにと幼い頃から思っていたから、世間で言う師という師、高貴な家々の名人たちの教えも余さず受けてみた。が、これこそ本物……!とても敵わない……!なんて思う程の人なんていなかったよ。その当時から変わってないんだけど、最近の若い人たちもやたらと洒落のめし過ぎるっていうか、ちょっと浅いんじゃないの?って思うんだよね。琴の琴はまして、碌に稽古する人もいなくなったと聞く。貴女の琴の音ほどに修得された人はもうなかなかいないんだよ」
ヒカルの言葉に女三の宮は、
(それほどまでにわたくしの腕が認められたなんて)
と思ったのか無邪気に喜んで笑顔を見せる。
年は二十一か二か、その割には幼く未熟な感じがして体つきも華奢なので、見た目は本当に少女のように可愛らしい。
「朱雀院にもお逢いしないまま何年も経ってしまったね。立派に大人におなりになったとご覧いただけるよう、日々の努力を怠ってはいけませんよ」
何かにつけ教え諭すヒカルはまるで父親か教師である。
「本当に、ここまで懇切丁寧にご後見くださる方がいなければ、ただただあどけなくいらっしゃるご様子が外にも隠し切れなかったでしょうね」
周りの女房達もつくづくと実感する。結局この宮さまは、ヒカル以外の男では無理だったのだと。
参考HP「源氏物語の世界」他
にほんブログ村
コメント
コメントを投稿