若菜上 十五
六条院で静養中の桐壺女御には、早く参内するようにと春宮から矢の催促である。
「無理もないことですわ。こんなに可愛らしい若宮もいらっしゃるのですもの、どれほど待ち遠しがっておられるでしょう」
紫上は言って、若宮を参内させる段取りに入る。
当の女御は、宮中で中々宿下がりの許可が出なかったことに懲りていて、このついでに暫く実家にいたいと思っていた。年端もいかない体で出産という命がけの仕事をした女御はやつれ気味だが、むしろ上品で優雅な雰囲気が際立っている。
「まだ元通りとはいえませんから、ご自身の参内はもう少し養生なさってからのほうが」
明石の御方から女御の体を労っての進言があったが、ヒカルは
「何、こうして面痩せした姿をお見せするのも、かえって魅力が増すというものだよ」
などと応える。あくまで男性目線なのであった。
紫上一行が部屋を出て人少なになった夕方、明石の御方は女御に例の文箱を差し出す。
「本来、満願成就となるまでは隠しておくべきことでございますが、無常なこの世ですからやはり心配になりまして。全てをご自身のお考えで決められるようになる前に、わたくしに何かあったら……と思いますと、必ずしも臨終の際にお看取りいただけるような身分でもありませんので、健在なうちに少しでもお耳に入れておいたほうがよかろうと思いました」
蓋を開ける。
「貴女のお祖父さまの手紙と願文です。読みづらい、変わった筆跡ですが、どうかご覧ください。願文はお手近の厨子などに置かれて、必ずしかるべき折に目を通し、この中の事柄をお果しください。気心の知れない人に漏らしてはなりません。貴女の将来も盤石と拝察し、わたくし自身の出家も視野に入ってまいりました。何につけ呑気にはしていられないと思っております」
明石の御方は居ずまいを正し、
「対の上の……紫上のお心をおろそかに考えてはなりません。本当に有り難い、深い愛情をお持ちでいらっしゃる。きっとわたくしなぞより長い寿命に恵まれましょう。もとよりわたくしは貴女のお傍に添うことも慎むべき身分にて、初めからお譲り申し上げたのですが、まさかここまでよくしていただくとは……長年、想像していたより遙かに素晴らしい母君にございます。今は、過去もこの先の未来もすっかり安心していられる、心からそう思っております」
懇々と語りかける。女御は涙ぐみつつ聞いている。
(お母さま……対の上とならば、一緒にいるだけで誰よりも気楽に過ごすことが出来る。この方は実の母君とはいえ、どうにもそこまでは打ち解けられない。何と申し上げたらいいのか)
言葉を出しかねた女御は祖父入道の文を手に取る。
黄ばんで厚ぼったい古檀紙五、六枚に香を深く染み込ませてある。文字は無骨で如何にも堅苦しい感じだが、読み進むうちに感極まり、額髪が徐々に涙に濡れていく。その横顔はたいそう気高く美しかった。
不意に中障子が開いて、女三の宮方にいたヒカル院が入ってきた。急なことで手紙類を完全に隠すことは出来ず、明石の御方はさりげなく几帳を引き寄せた。
「若宮はお目ざめか?ちょっとだけでも見ないと恋しくてね」
ヒカル院の言葉に女御は黙ったままだ。明石の御方が代わりに応える。
「対の上にお渡ししました」
「なんと、またか。あちらでは若宮を独り占めで、ずーっと抱きっぱなしでお世話するものだから、着物も皆濡らしちゃってしょっちゅう脱ぎかえているらしいよ。何でカンタンに渡しちゃうかな。紫上も紫上だ、此方に来てお世話すればいいのに」
「まあ、なんて思いやりのないことを仰いますこと。もし女宮でいらしても、あちらでお育ていただくのが一番よいことでございましょう?まして男宮は、どれほど尊い身分であっても気安いものと存じあげます。ご冗談にも、そんな分け隔てなさるようなことを賢しらぶって仰るものではありませんわ」
バシっと斬られたヒカルは微笑んで、
「ハイハイ、女二人にお任せして出しゃばるなってことね。最近は皆して私をのけ者にするんだもんなあ。賢しらぶって、なんて言い方も大人げなくない?そもそも自分はそんな風に隠れておいて、冷たくこきおろすだけってどうなの?」
言うなり几帳を引きのけた。母屋の柱に寄りかかった明石の御方の姿はすっきり清らかで、こちらの気が引ける程に美しい。
先ほどの文箱は、慌てて隠すのもかえって不審に思われるだろうと、そのまま置いてあった。
「ん?これ何の箱?随分大きいし訳アリな感じだね。誰か言い寄って来た奴が長歌でも詠んで寄越した?」
「いやですわ、何を仰いますやら。ご自身が今めいた風に吹かれて若返られたからといって、この頃はわたくしたちには到底うかがい知れないようなご冗談が出てきますこと」
難なく切り返して微笑む明石の御方だが、涙の跡は隠しようもない。首を傾げるヒカルに、
「あの明石の岩屋から、内々でさせた祈祷の巻数、まだ願解きをしていないものなどまとめて送ってまいりました。殿にもお知らせいたすべき適当な機会があれば、ご覧に入れた方がよいのではないかとのことで。ただ今はその時機でもございませんので、お開けになる必要はないかと」
と説明した。ヒカルは、
(明石からか。ならば泣くのも無理はない)
と思いつつ、
「あちらの入道は、どれほどの修行を積んで暮らしておられるのだろう。七十はとうに超えたはず。長年勤行してきた功徳の積み重ねで、消えた罪障も数知れないだろうね。とかく世の中は、有名な高僧といってもよくよく見れば俗世にどっぷり染まって煩悩塗れだったりする。いくら学問が優れていても、そんなんじゃ全然納得いかないよね。それにひきかえ明石の入道は実に悟り深く、それでいて風流も解する。如何にも聖がましく浮世離れしてまーすって顔はしてないのに、内面はしっかり極楽浄土に行き来してるように見えたよ。まして今では絆しになるような親族も傍にいないし、解脱しきってるだろうね。ああ、私が気楽に動ける身ならこっそり逢いにいきたいものだが」
しんみり懐かしがる。
「……今はあの住処も捨て、鳥の声も聞こえぬ山に、と聞いております」
※飛ぶ鳥の声も聞えぬ奥山の深き心を人は知らなむ(古今集恋一、五三五、読人しらず)
「そうか……では遺言なんだね。手紙はやりとりしてる?大尼君はどう思ってらっしゃる?親子の仲と夫婦の仲はまた違うものだから、さぞかし悲しみも深かろう」
涙ぐむヒカル。
「年を重ねて世の中を思い知るにつれ、不思議と忘れられない、どうしているんだろうって気になるお人だよね、あの入道は。長年連れ添った夫婦なら尚更感慨深いことだろうね」
明石の御方はヒカルの言葉に、
(もしや父君の夢語りに思い当たることがあるかもしれない)
と思い、手紙を見せた。
「たいそう奇妙な、梵字とかいう筆跡ですけれど、お目に留まるようなこともありましょうか?これで最後と別れたものの、やはり愛着は残るものでございました」
見苦しからぬ程度に品よく泣く明石の御方に、ヒカルがそっと寄り添う。
「いや実にしっかりしてる。まだまだ耄碌などしていないね。筆跡はもちろん総じて何でもハイレベルな、まさに『有職』といっていい方だった。ただ世渡りの心得だけが上手くなかったね。あの方の祖父大臣は、たいそう賢い上に朝廷に対しても稀なる忠誠を尽くしつつ仕えていたそうだよ。それが何かの行き違いがあって、その報いで子孫が絶えてしまったという噂。でも女系とはいえこうして後継はいるわけだし、長年の勤行の甲斐があったってことかな」
涙を押し拭いつつ、あの夢の箇所に目を留めるヒカル。
(偏屈者だし、無暗に理想が高いよねと人にも咎められ、この私だって……あんな、普通ならしないような身分違いの結婚を正式な形ではないにしろする羽目になった。それもこの女御の誕生で、なるほど前世からの宿縁だったんだね!理解した!ってなったけど、いやいや目の前に見えない遠い先のことなんて誰にもわからないよね、とも思い続けてきた。そうか……この夢を頼みにしていたからこそ、無理に私を婿にと望んだのか。私が無実の罪によって酷い目に遭い流浪したのも、ただこの入道一人の祈願成就のためだったと?いったいどんな祈願をかけたものやら)
興味が湧いてきたヒカルは、心の中で拝みつつ文箱を手に取った。
「この願文と一緒に、私からも差し上げねばならないものがある。またそのうち話をするね」
女御にそう言って、紫上が如何に素晴らしい女性かをここぞとばかりに語る。
「今こうして、昔の事を大分お分かりになったから言っておくけれど、あちらの母君……紫上のお気持ちをいい加減には思わないようにね。縁あって結ばれた夫婦仲や切っても切れない実の親兄弟の仲ならいざ知らず、血の繋がらない他人が一時でも情けをかける、一言の好意でも寄せるのは並大抵のことじゃない。まして、こちらで実の母君が始終付き添っているのを目前にしても、引き取った当初の心持ちが少しも変わらず愛情たっぷり注いでくれるんだから」
目を潤ませながら頷いている女御に気を良くしたヒカルの口は止まらない。
「昔話によくあるよね。なさぬ仲なのに偉いわ~って言われたいがために、いかにも表面だけは継子を可愛がるかのように装う継母。ただ内心悪意を抱いていようが何だろうが、継子の方が素直に慕ってたりすると、こんな良い子を憎むなんて罪を得ることだわ、ちゃんと可愛がりましょう、なんて改心することもあるけどね。よっぽど昔からの仇敵っていうのでもない限り、色々と行き違っても、各々に悪気がなければ自然と仲良くなっていく例もたくさんある。些細なことにツンツンして難癖つけて、可愛げなく誰かを疎んじる心のある人とはとても仲良くできないし、近づこうとも思わなくなるよね。私はさほど多くの女性を見て来たわけではないけど、知る限りでは嗜みといい教養といい、それぞれ恥ずかしからぬ程度の心得はある人ばかりだ。皆それぞれに長所はあって何も取り柄が無いということはない。だけどいざ我が妻に、と真剣に選ぼうとすると中々……ね」
例によって話がズレた。
「真に心が真っ直ぐで善い人といえるのは対の上だけで、彼女こそ善良な女性というべきだろうね。ただ善良といっても、あまりにポヤーンとした頼りなさ過ぎる人は残念!」
強引に紫上を褒めちぎる結論に持っていったものの最後は余計である。誰の事を言っているかはミエミエで、周りは反応に困るばかりだ。
ヒカルは明石の御方に声をひそめて言った。
「貴女こそは、まさに少しは!道理を弁えておられる大変善き人だよ。善き人同士仲良くしあって、これからも女御を強力バックアップよろしくね」
「態々の仰せがなくとも、対の上には誠に有り難いご厚意をいただき、朝夕の口癖に感謝申し上げておりますわ。わたくしを目障りなもの、顔も見たくないと思し召すどころか、身の置き所も無いほど人並に言葉をかけてくださるので、かえって面はゆいくらいです。数ならぬ身が今此処に在って、世間に聞き耳を立てられますのも辛く何かと憚られますが、何のお咎めもない対の上のご様子に常々庇っていただいております」
「貴女への厚意というより、ただこの女御のため、自分で始終付き添って世話できないのが不安で任せてるんだろうね。貴女もまたうまくバランスを取って、自分が自分がと目立ちたがるような振舞いはしないから、何事も円満に運ぶし体裁もいい。いや本当に、嬉しいことだよ。ちっちゃいことにいちいち引っかかるような僻みっぽい系が一人でも交じっちゃうと全体が迷惑するからね。その手の人がどっち側にもいないから安心安心って思ってるよ」
ヒカルはにっこり笑って、紫上の待つ対の屋へと帰っていった。
(ああ、何事にもへり下ってきたのは正解だったわ)
明石の御方は内心快哉を上げる。
「やはり紫上への御愛情はいや増すばかりのようですわね。実際に人並以上に何もかも揃っていらっしゃる方ですもの、誰が見ても当然と思われるのは素晴らしいこと。あちらの……女三の宮さまは、表向きの扱いだけはご立派なようですが、お渡りがおざなりでいらっしゃるのは勿体ないことですわね。紫上とは同じ血筋でいらして、もう一段ご身分が上なだけにお気の毒ですわ」
女御にこっそり陰口を聞かせながら、奥の本心までは出さない。
(わたくしの運命は本当に大したものだったわ。正直、宮さまなどよりずっとマシな気がする)
(あんな高貴な方でさえ夫婦仲は思うようにはならないらしい。わたくしなどはなから仲間入りできるような身分でもないのだから、今となっては恨めしいも何もない。ただ、世を捨てて深山に籠った父入道がどうしているかと思うと哀しいし心配だわ……)
大尼君もただ入道の手紙の「福地の園に種をまいて」という一言を頼みに、自身の後世にも思いを馳せていた。
参考HP「源氏物語の世界」他
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