若菜上 二
「ちょっとー、聞いて?院の上がお漏らしになったことなんだけどね、ほら例の、姫宮さまの件。どうも其方の……ヒカル院に差し上げたいお気持ちがあるみたい。機会があったらでいいんだけど、それとな~くお耳に入れてくれない?何となく匂わせる程度でいいから」
「ヒカル院と?年が離れすぎてない?四十と十三って、親子どころか孫だよ平安時代じゃ……だいいち内親王さまって独身のままが通例じゃないの?」
「それはそうだけどさ、生活全般に面倒みてくださる後見役がいれば頼もしいじゃない?院の上以外には心底からご心配してくださる方はおられないのだもの、私たち女房だけじゃ心許ないし。それに私ひとりがいくら頑張ったところで、これだけ大勢いれば思わぬことも起きかねないわよ。誰かが手引きしたりさ、浮いた噂が立ったりなんかしたらもう最悪じゃない?」
「まあね、確かに。院の上がご健在なうちは離れててもさすがに滅多なことはないだろうけど……正直、もうそこまで長くはないんだろうし、お隠れになったが最後、有象無象が群がるだろうね。事によると私もお前もバッサリお役御免になっちゃうかもしれないなあ」
「ほんとそれよ!院の上のお目が黒いうちに、どんな形にせよ姫宮さまの落ち着き先が定まった方が、私も気楽にお仕えできるってものよ。高貴なご身分といっても、所詮女の人生なんて不安定で、とかく心配事も多いもの。内親王さま方の中でも抜きんでて大事に扱われてる方だから、周りからの嫉み嫉みもあるでしょうし、少しでも弱みがないようにしたいのよね」
「うーん、どうだろうね……ヒカル院は不思議な程お心の変わらない方で、いったん見初めたお方は、気に入った方も、またそこまででもない方でも、皆まとめて引き取ってあれだけ大所帯になったんだよね。だけど中でも大事に扱われる方っていうのは限られてて、実質春の町のお一方だけ。そちらにばかりご寵愛が偏ってて、他は寂しいもんだよ。もしご縁があって宮が降嫁されるようなことがあったら、そうだな……あの方も、さすがに内親王クラスと張り合って押し引きする程のご身分ではないから、今まで通りってわけにもいかない気はするけど……私には何とも言えないなあ。ただ、
『この末世にこれほどの栄えを得たことは満足だけど、こと女性関係では人に謗られてばかりだったよ。正直不本意だね』
なんて仰ることはままある。ごく内々の、軽い世間話だけどね」
「まあ!それはどういうことなの?」
「別にはっきり何かを仰ったわけじゃないんだよ。私ら家来の間でこうかなって話してたのはさ、六条院にいる女君たちはそりゃ賤しい身分の人こそいないけど、今や准太上天皇にまでなられた院と並ぶ程の方はいないんだよね。あの春の御方だって、式部卿宮の娘御だから血筋こそ皇統だけど、ただ人に過ぎないからさ」
「やっぱりそうなのね。以前、前斎宮の御方とどうのこうのって話があったじゃない?あれってまさに、そういう最上級クラスのお方を六条院にお迎えしたいってお心の現れじゃないのかしらって思ったのよ私」
「なるほど、言われてみればちょうどいいのかもなあ。朱雀院さまのご意向通りにご降嫁あそばしたら、さぞかしお似合いの夫婦になられるだろうね」
この「内々の世間話」を基にした兄の話を放置する乳母ではなかった。
またもや事のついでに、
「かくかくしかじかと、何某の朝臣にほのめかしたところ
『ヒカル院にはきっとご承諾いただけるでしょう。長年のご宿願がかなうとお思いになるはずのことですし、本当にこちらの院の御許可があるのならお伝えいたしましょう』
などと申しておりましたが、如何いたしましょうか?」
若干、いやかなり盛った話を朱雀院に切々と説く。
「彼方の院は、それぞれのお方の身分を考慮にいれ弁えつつ、分相応に、絶妙な御心づかいで上手に切りまわしていらっしゃるようです。臣下の者でございましても、自分以外に寵愛を受ける女が並び立つのは不満に思うもの。姫宮さまにおかれましても心外なことかもしれません。ご後見を希望される方は他にも大勢いらっしゃるようですから、よくお考えあそばしてお決めになるのがよいでしょう。最上のご身分の方といえども今の世の中、品格を保った暮らしぶりでほがらかに独り身を貫く方もいらっしゃいますが、畏れながら姫宮さまはどうにもおぼつかないと申しますか……頼りなげでいらして、女房達だけの世話では到底行き届かないでしょう。予め決められた大筋があれば、小生意気な下々の者もそれに沿って動きますが……やはり姫宮さまにはきちんとしたご後見がいらっしゃらないと、どうにも心細うございます」
朱雀院は溜息をつきながら答える。
「そうだね、私もそう思うよ。皇女達が結婚するというのは如何にも軽薄な感じがするし、またいくら身分が高くても、女は男との結婚で悔やまれることも、癪に障るようなこともきっとあるものだからね。そこが不憫で悩ましいところだが、だからといって、親に先立たれ頼みとする後見役とも離れてしまったら、自分一人で立ち行くことができるかどうか……昔は人の心も穏やかで、世間から許されない身分違いの恋愛など思いもよらないことだったが、今の世ではね……好いたはれたの乱りがましい有様は、近しい所からも聞こえて来るからね。昨日まで品格ある親の家で大切にされて育ってきた娘が、今日は平凡な身分の低い好き者どもに浮名を立てられ騙されて、亡き親の面目をつぶし死後の名を辱めるような事例も少なくない。降嫁させるにしろさせないにしろ、どちらも同じくらいリスクはあるということだ。各々の身分に応じて宿世もそれぞれだから予測も不可能だし、これなら絶対に安心!ということなどない。総じて、良くも悪くも誰かが用意した道筋通りに世の中を過すというのは、結局それぞれの運任せであって、晩年に衰えることがあっても自分の責任にはならない、という程度のこと」
乳母の他、周囲に侍る女房達も共に聞き耳を立てている。
「結果的にたいそう幸せになって、見苦しからぬ暮らしを送れるようにもなったなら、あの時の選択は間違っていなかった!となるかもしれないが……やはりその当座はね。親にも知らせず、庇護する立場の者が許す前に、勝手気ままに色恋沙汰を仕出かしたりすれば、女にとってはこの上ない疵となる。普通の臣下同士でさえ浅はかだと謗られるような振舞いなのに、まして内親王という身分では、ね」
(……どなたのお話なのかしらね。思い当たるところ多すぎ)
(それはともかく、結局ご結婚おさせになるのかしら、させないのかしら)
(しっ、まだお話中よ!)
「本人の意思と全く無関係に事が運ばれてよいはずのことではないが、かといって自分の気持ちばかりで夫を選び、運命の程が決まってしまうのも、それはそれで軽々しい。むしろ日常の身持ちや暮らしようがダイレクトに推し量られてしまう。姫宮が妙に頼りない性質と見えるからと、お前たちの考え通りに取り計らうとすれば、必ずやその経緯は世間に漏れ出るだろう。それもまた情けない話だ。私が出家した後に何を言われるやらされるやら知れたものではない」
(え……要するに、女房ごときの言葉に従ったってことにしたくないと)
(乳母さんやらかしちゃったわね。差し出がましいってことよね)
(こうなると厄介ね……決まらないんじゃない中々)
声にならない声が広がる場の雰囲気を察したか、朱雀院のトーンが少々変わる。
「そうはいっても私自身、姫宮が今少し物の弁えができるまでと、今日はどうか明日はどうかと気を揉みながら年数が経ってしまった。このままでは出家もままならず、本懐を遂げずじまいになりそうな気がして焦っている。六条のヒカル院はたしかに万事を心得ていて、安定の点ではこれ以上ないくらいの人だ。方々におられるご夫人たちを考慮する必要はあるまい。何と言ってもご本人の心がけ次第。あれだけゆったりと落ち着いていて、広く世の模範として信頼できる方はいないだろう。他に適当な人は……例えば、兵部卿宮?」
玉鬘を逃した兵部卿宮は未だ独り身である。
「人柄は問題ない。父を同じくする皇族だし、決して軽んじるべき方ではないが……あまりになよなよしく風流めいて、威厳に欠けやや軽率に過ぎる感がある。もうすこし頼もしさがほしいところだね」
(女好きで有名なお方でもありますものね)
(家柄や年齢、条件としては充分なのですけれど……また逃されるのかしら、お気の毒)
「また、藤大納言の朝臣が家司として世話をすることを望んでいるとの由、おそらく忠勤すること間違いないだろうが、それもどうしたものだろう。さすがにここまで普通の身分の者だととても釣り合いが取れそうにない」
(まあ実質夫婦になりますものね)
(内親王が家司の妻、はたしかに無理がございましょうね)
「このような婿選びは、昔から何事も人より格別すぐれた声望のある者に落ち着いたものだ。ただ一途に、他の女には目もくれず大事にしてくれる点だけを最優先に考えるのは、あまりに偏った残念な決め方であろう」
(その通りですけれども……そうするともうお一人しか)
(順々にこうして納得していかないと、というお考えなのでしょう)
「もう一人、太政大臣の長子・右衛門督が内々に希望していると尚侍が話していたが……この人ならば、位さえもうすこし上ならば何の不釣り合いなことがあろう、と思ってはいる。いるが……いかんせん年が若すぎるし、あまりに地位が軽い。皇統の女性を得たいという願いが強くて独り身で過ごしていると聞いた。その冷静沈着な立ち居振る舞いと意識の高さは誰よりも抜きんでていて、漢学の才も難なく備わり、ゆくゆくは世の重鎮となるはずの人だ。将来性は十分に期待できようが……やはり婿にと決めてしまうには何か足りない気がする」
(すっきりイケメンでいらっしゃいますし、年齢的には一番よろしかろうと思いますけどねえ、私は)
(結局はヒカル院にしたいのかしらねえ)
(わからないけど、他の姉宮さまたちとは本当に扱いが雲泥の差ね。あちらだって放っておいていいものでもないと思うけれど)
(それほどまでに女三の宮さまは大事にされてらっしゃるということね)
毎日のように思い煩う朱雀院を黙って見守る女房達であったが、この手の話はいくら隠そうとしても漏れだすものである。「朱雀院が特に溺愛する女三の宮の婿を探している。候補は誰と誰」という噂は急速に広がっていった。
太政大臣はもちろんやる気満々である。
「ウチの衛門督が今まで独身でいたのは、皇女でなければ結婚しない!って言い張ってたからだし、そりゃあこんな御詮議が出て来たら名乗りを上げるしかないでしょ。それで選ばれてお召しがあればラッキー、一族あげての面目躍如!ってやつだよ。乗るしかないこのビッグウェーブに!」
未だ朱雀院の寵愛深い朧月夜の尚侍の君は、太政大臣の北の方の妹である。この最強のコネをふんだんに使い、あらんかぎりの言の葉を尽くして奏上、院の御内意を虎視眈々と窺う。
兵部卿宮は、玉鬘……今は鬚黒左大将の北の方……をもらい受けそこなったことから、彼女以上の妻でないと!と選り好みしていたのだが、今回の話にはいたく心を動かされ日々やきもきしていた。
藤大納言は、朱雀院の別当として長年親しく仕え続けてきたが、院が出家した暁にはその任を解かれてしまう。姫宮の後見を口実に、末永く心にかけて貰えるよう熱心に頼み込んでいるという。
夕霧権中納言も噂を耳にして、
「あの時は人伝てでもなく、意中を直接私に洩らされたのだ。此方から何気なくご機嫌伺いにかこつけてほのめかしてみたら……きっと聞き入れられて、候補から外すこともあるまい」
と心をときめかしたには違いないが、
「とはいえ雲居雁が、これでもう安心!とすっかり私に頼り切っているんだよね……長年、あの酷い仕打ちを口実に浮気しようと思えばできた時でさえ、他の女へ心を移すこと無く過してきたっていうのに、今になって昔に逆戻りしていきなり辛い物思いをさせるとか、余りにも余りだよね。それにあそこまで高貴な方に関わってしまったら、何事も思うままにはならないし、朱雀院と太政大臣と両方に気を遣って大変だろうな……」
本来そこまで女好きでもない性質なので、表には出ない程度の関心である。しかし誰か他の男に決まってしまうのも悔しい気がして、密かに動向には注目していた。
春宮にもその噂は届いた。
「差しあたって現在がどうこうというよりも、後世の試しともなるべきことですから、よくよくお考えにならなければ。いくら人柄が良くても、相手が臣下では示しがつかないでしょう。その点でいいますとやはり、あの六条院にこそ親代わりにお譲りするのが良いのではないでしょうか」
と、正式な手紙というわけではないが内意が伝えられた。待ち受けていた朱雀院は、
「まことに仰る通り、よくぞ熟考してくださった」
ついに心を決めた。あの乳母の兄である左中弁を使者とし、とり急ぎ事情を伝えに六条院へ向かわせた。
朱雀院が女三の宮の行く末を非常に心配していることは以前から聞いていたことなので、ヒカルも特に驚きはしない。
「お気の毒なことだ。しかし院の御寿命が残り少ないとして、私だって大して年齢は変わらないんだよ?あとどれほど生きられるか知れたものではないのに、そんなお若い姫宮の御後見役など、どうしてうかうかお引き受けできようか。もし歳の順を間違わずもうしばらくの間長生きできたなら、内親王方は誰であろうと他人扱いするはずもない。特に院の胸の内を伺ったそのお方だけをご後見するにしても、それすらこの無常な世では確と定められないよ」
同情しながらも、流石に現実的ではないという口ぶりだ。
「まして私だけを頼みにしてさらに繋がりを深くすれば、それこそ世を去られる時がおいたわしい。私自身にとっても容易ならぬ絆しになるに違いなかろう。私より、夕霧中納言の方はどうなの?まだ年も若いし身分もさほどではないが、我が息子ながら将来性はあるよ?ゆくゆくは朝廷の後見役となるべき器量だとも思うし、そちらを考えられても何の不都合もないでしょ。ただ、あれだけ真面目を絵に描いたような男で、尚且つ長年の一途な恋が実ったところだから、ご遠慮されてるのかもね」
「……畏れながら、院の上におかれましては並々のご決心ではございません。ただ安直にヒカル院をお選びになったわけではないのです。しかるべき方面にご意見を伺いつつ、何日もかけて考え抜かれた末の、このお願いにございます。どうかご理解の上ご一考賜りますよう」
ヒカルは苦笑しながら、
「わかるよ。あれ程大切に可愛がっていらっしゃる内親王のことだから、ただ一心に過去も未来も深くお考えになったんだろう。そうだな、宮仕えはどう?れっきとした昔からの方々がおられるからちょっと……って理由はナシだよ。入内自体は別にいつしてもいいものだし、後から来たからといって粗略に扱われるとは限らない。亡き父院……故桐壺院の御代に、春宮時代からの最初の女御として大后が威勢をふるっておられたが、遙か後に入内した藤壺の女御に圧倒されたってこともあったよね」
後から入って苛め抜かれて亡くなった自分の母親・桐壺更衣のことは勿論例に出さない。
「そういえば、女三の宮の母君・源氏の女御は、藤壺の女御……故女院の姉妹でいらした。ご容貌も女院に次ぐとうたわれた方だよね。どちらの筋からいっても、この姫宮は並大抵の方ではないはず」
やはり興味は隠し切れないヒカルであった。
参考HP「源氏物語の世界」他
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