胡蝶 四
あの男踏歌の対面以来、姫君と紫上とは親しくお手紙を取り交わしておられます。長年の田舎暮らしゆえに嗜みが深いとまではいえないものの、物の弁えはきちんとしておられますし、人好きのする性格でもございますので、上はもちろん他の方々にも可愛がられているようでした。
面立ちこそさほど母君に似てはおられませんが、ふとしたときの表情や仕草に時折、ドキっとすることは多々あります。まるで亡き夕顔のお方さまその人がそこにおられるような気がして。ただ、長くご苦労なさっているぶん、他人への心遣いやちょっとした機転は優れていらっしゃるように思います。
そんな姫君ですから、実の父君のことは一言も口に出されませんでした。いつお知らせいただけるのかと気がかりだったに違いありませんが、きっとヒカルさまはじめ皆さまへのご遠慮の気持ちが大きかったのだと思います。
夏の衣更えが終わった頃合いで気候もよく、六条院では管弦遊びなど頻繁に催されました。その度に、姫君あてに懸想文の類が山と届きます。ヒカルさまはすっかり面白がって、此方にお渡りになられては手紙をご覧になり、この人にはこう、あの人にはこう返事をせよなどと促したりなさるのです。
「お、兵部卿宮からじゃないか。これはまた熱い手紙だ。この宮とは子供の頃から分け隔てなく、他のきょうだいよりずっと親密に付き合ってきたんだよ。ただ、こと恋愛に関しては秘密主義だったんだよね。この歳になってから宮の恋文を目の当たりにするとは、実に感慨深い」
ヒカルさまはニコニコしながら、
「この方には是非ともお返事なさい。すこしでも情趣を解する女性なら『この親王さま以外に歌のやり取りをするに足る方がいらっしゃるかしら』と思うほどの人物ですよ。とても優雅で人柄もよくて、お勧めだね」
そんな風に仰って、姫君の反応をいちいちご覧になるのです。ご当人は何をどう答えていいのかもおわかりにならないようで、ただ恥じらっておいででした。
「こちらは……鬚黒の右大将か。『恋の山路では孔子も転ぶ』とでも言いたいくらい切なく懇願しておられるね。あんなに実直で威厳ある方がこのように仰られることもあるのかと思うと興味深いね。宮にお返事するのが気づまりなら、まずこちらの方に練習のつもりで出してみては?……おや」
ヒカルさまが摘み上げた細く小さな結び文。縹の唐紙からはほのかに香が匂っておりました。
「これは、どういう理由で結んだままにしてあるの?広げてみよう……おお、見事な筆跡だ。かなり若いな。
『どんなに恋い焦がれているか貴女はご存知ないでしょう
岩間から湧き漏れ出す水には色がありませんから』
いったい誰から?どうやってこの文を受け取られた?……右近!」
「はい、如何なされましたか」
ヒカルさまはすこしお怒りのようでした。
「この結び文は何処から来た?何でも届ければいいというものではないよ。間違いを仕出かすのは何も男だけの罪じゃない。ふわふわ浮ついた、賢しらな女が差し出たことをする例もあるからね?」
「はい、承知いたしております」
「私自身の経験からすれば、ああ何て薄情な、酷いなあと思うくらい冷たく扱われても、相手が本当に何もわからない天然女なのか、身の程を弁えない生意気な女なのかは判断できないんだよね。特に深い意味もない、花や蝶につけての便りなのに何の反応もないと、逆に火が付いちゃうこともある。女にしてみれば、男がそのまま忘れ去ったとしてもよし、更に言い寄ってくるならまた考える、程度のことでどっちにしろ疵にはならないんだよね」
おや、誰が出したのかという話からズレてきましたわと思いましたが、そのまま黙っておりました。ヒカルさまは最近このような仰られようが多いので。
「だから、うかうか文を受け取りました!見ました!なんて極力わからせない方がいいんだよ。特に、その場の思いつきで書いたようないい加減な文なぞ相手にする必要ない。下手をすると後々面倒の種となるからね。総じて、女があまりあけすけに心の内を見せるものでもないし、物の情趣をわかったような顔でアピールしても碌な結果にはならない」
「左様でございますね」
「その点、宮や右大将は見境なく物を仰る方々ではないから、余りにも情の無い扱いは貴女のような若い女性にも相応しくない。ましてそれ以下の身分の人なら、相手の熱意の度合いに応じて、愛情の程をよくみて慎重にご判断なさるようにね」
姫君の方をそっと窺うと、恥ずかしそうに横を向いていらっしゃいます。撫子の細長に季節の花の色の小袿、今時の色襲がよくお似合いでございました。まだぎこちなさが残っていた頃は、ただ素朴で大人しいという風にばかり見えておりましたが、やはりこの六条院という環境、他の方々のご様子を見知っていくにつれ、立ち居振る舞いも自然にそれらしくなよやかに、お化粧なども上達されて、ますます華やかにお美しくなられました。
ヒカルさまもその横顔に思わず見とれてしまわれたのでしょう、長いお話が途切れました。今こそ、と私も微笑みつつ口を開きました。
「畏れながら申し上げます。私ども、殿方のお手紙など決して取次いだことはございません。以前からヒカルさまもご存知の三、四通ばかり、突き返すには失礼かと思われます向きだけを姫君にお見せしております。ましてお返事の方は一向に……お勧めされた時だけですが、姫君はそれすら辛いことにお思いのようです」
「なるほど。では、この若々しい結び文は誰のだ?えらく細々と書いてあるようだが」
「それは……内大臣さまの御子息、中将さまにございます。此方に仕えている童女の海松子を以前からご存知で、無理に置いていかれたようです。何分にもまだ頑是ない子供でございますから、断り切れなかったのも致し方ないかと。他の女房達には、特に目くじらを立てるようなことはございませんでした」
「なんと!あの中将か。それはまた可愛らしいことだな。まだ四位の身分だが、おろそかに扱うべき若者ではない。公卿といっても大した人物ではない者も多いけど、この人は違うよ。冷静沈着で、将来有望な若者の一人だ。そうか、中将ね。いや、見事な書きぶりだな!」
一転手のひらを返されて、改めてじっくりご覧になるヒカルさまにございました。
「……年寄りがゴチャゴチャとうるさいことを言って煩わしいだろうけど」
ヒカルさまは顔を上げて、姫君をじっと見つめられました。
「父の内大臣に何故自分のことを知らせないのか、知らせれば、こうして実のきょうだいが懸想文を寄越すような間違いも起こらないのでは?と、貴女は不思議に思ってらっしゃる。違う?」
姫君は小さく頷きました。
「そりゃそうだよね。うん、たしかにあの内大臣に知らせること自体は全く問題ないんだ。貴女の母君をとても愛していたようだし、貴女自身のことも気にかけていた。貴女がここにいると教えれば、喜んですぐにでも引き取る!というだろうし、きちんと面倒もみてくれると思う。そこは心配していないんだが……貴女には後ろ盾となる人がいない。私が今保護者のようになっているけれど、一旦内大臣の邸に入ってしまえば、親族でもない私にはもう手出しができないんだ」
「どういうこと……でしょうか」
「長年離れて暮らしていたわけだからね。あの邸には、貴女の母君が逃げ出すきっかけを作った北の方がおられる。弘徽殿女御のお里でもある。男きょうだいも多い。そんな中に、突然若く美しい貴女が一人で飛び込む。中々厳しいことだと思うよ」
姫君は首を傾げておられましたが、私にはヒカルさまの仰っていることがよく理解できました。既に出来上がった人間関係の中に入っていくことは並大抵のことではありません。しかも、向こうからしたら脇腹も脇腹、北の方に若い頃ほどの憎しみはないにしても、もろ手を挙げて歓迎ということにはならないでしょう。波風は立ちます、確実に。
「私の考えでは、やはり貴女はこのまま此処にいて、しかるべき夫を持ち、落ち着くところに落ち着いてから堂々とその身の上を明かすのがいいと思う。何も慌てることはない、実の父との縁が切れるなんてことはないんだから。ただ、急ぎ過ぎて貴女が気の毒な境遇になることだけは避けたいんだよ」
「……はい」
「さて、兵部卿宮だが。今は独身でいらっしゃるけど、実は結構な色好みではあるんだよね。詳しくは知らないけど通い所も多くあると聞くし、召人と名のり立てる女房も一人や二人ではないらしい。そういう面にキリキリせず大らかに構えていられるなら、何事も穏便に済むだろうけど、少しでも心にわだかまりが残るようならいずれ破たんするだろうね。ちょっと覚悟が必要かな。あと右大将だけど、長年連れ添った北の方がいらっしゃるんだよね。不仲なので貴女に求婚しているということらしいが、周りは色々口を出す人も多いようで、何かと面倒くさいかも。うーん、こうしてみるとどっちもどっちだな」
姫君は困惑されるばかりで、もうお返事も出来ないでいます。
「まあこの手の話は、実の親であっても中々言い出しにくいことだろうけど、貴女はもう大人だし何事もご自分で判断できるでしょう。私を、亡くなった母君と同様に思って何でも相談してください。貴女のお気持ちに添わないようなことはしたくないので」
「わたくしは……何の分別も無い小さな頃から、親というものを知らない生活に馴れてまいりましたので何をどう思案していいものやら……」
「ならば俗にいう『後の親とて親は親』とでも思って、私のこの並々ならぬ心差しの程を、最後まで見届けてください」
まるで口説いているような、何やら不穏な雰囲気を私は感じ、姫君もいくぶん察せられたようです。が、聡い方ですからおくびにも出されません。ヒカルさまは溜息をつかれると、立ち上がられました。
庭先の呉竹の若芽が伸びて、風にさわさわとなびいています。ヒカルさまは立ち止まって
「まだ小さいうちから邸の奥で大事に育てた娘も
いずれ彼方へ此方へと嫁いでゆくのか
思えば恨めしいことだ」
御簾を引き上げて詠まれました。姫君も少し端近にいざり出て応えられます。
「今更、どうして私の
実の親を探したりしましょうか
なかなか、甲斐のないことにございましょう」
ヒカルさまがお帰りになられたあと、姫君はそのままぼんやりと庭を眺めてらっしゃいました。実のところ、ヒカルさまへお気を遣われてのあのお歌だったでしょう。実の父君に逢いたい気持ちはある、けれど此処での扱いほどに心をかけてはくださらないかもしれない。それ以上に、こんなに良くしてもらっているのに……という罪悪感に似た気持ちにもかられ、自分からすすんで父君に知っていただくことなど考えられなくなってしまったでしょう。
ヒカルさまのこれまでのご厚意はまことに有り難くはあるのですが、姫君にはおいたわしいことでございました。私がまずヒカルさまにお伝えしたことは良かったのか悪かったのか……と自問自答もしてみましたが、他に選択肢はありませんでした。さていったい、これからどうしたものでしょうか。
参考HP「源氏物語の世界」他
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