乙女 三
「息子は元服したといえどもまだ若年ですので、当面は無理に大人扱いする必要もないでしょう。前々から考えていたことでございますが、息子を大学の道に進ませ、暫くの間勉強させようという心づもりでおります。二、三年程を猶予の年と思いなし、そのうち朝廷にも仕えられるような実力がつきましたら、自ずと一人前ということにもなりましょう」
「私自身は宮中で育って、世の中のなんたるかも知らぬまま、夜となく昼となく父帝の御前に伺候し、ほんのわずかですが学問も習いました。ただ何事も広き心を知らないうちは、畏れ多くも父帝から直に教えていただいたことさえ、漢籍を学ぶにも及ばず、琴笛の調べにも音色が十分でないところが多くございました」
「とるに足りない親を、賢い子が超えていく……そういった例もなくはないですが、なかなか難しいことでございます。代々の子孫が初めの頃より徐々に劣っていくような、どうにも不安な気持ちになりましたので、こう決めた次第です」
「高貴な家の子弟として心に適った官位爵位を得て、今を盛りと驕り高ぶれば、学問などで身を苦しめるなど縁遠いことと思うでしょう。遊びごとや音楽ばかりを好みながら思うままに官爵も昇る、それも時勢に乗っている間であればこそです。世間の人々に追従されご機嫌をとられているうちは、内面がどうであれいっぱしの人物とみえますが、ひとたび時勢が移り、競争相手にも立ち遅れて世の中で衰えていくばかりとなれば末路は……人に軽んじられ侮られ、何の取り柄も無いまま終わる人生です」
「やはり学問を基礎にしてこそ、物事を処理する実務能力といった方面も強くなりましょう。さしあたっては心許なく思えましても、将来の世の重鎮となるべき心構えを学んだなら、私がいなくなった後も安泰であろうと思われます。今の身分こそぱっとせずとも、このような意向で育てていきましたら、食い詰めた大学生だとバカにして笑う者など決してありますまい、と思います」
大宮はほっと吐息をついた。
「なるほど、そこまでお考えの上でのことでしたか。息子の右大将なども、あまりに例のないご処置だと不審がっておりましたようです。若君も子供心に相当ショックを受けられたようで……何しろ大将や左衛門の督の子など、自分よりは身分が下だと見ていた者たちが皆それぞれ位階を刻んで、一人前の貴族となっていますからね。浅葱色の袍がとてもつらいようなので、可哀想で……」
ヒカルはちょっと笑って、
「それはそれは、一人前に恨み言を申しているのですね。まったくたわいもない。まあ、あの年頃ではね」
いかにも可愛いと思うが、きっぱりと言い放つ。
「しっかり学問などして少々でも物の道理を弁えたなら、その恨みも自ずと解けるでしょう」
大学寮に入る者は「字」をつける。若君の入寮に際し、その儀式を二条東院にて行うこととなった。場所は東の対である。上達部や殿上人は、滅多に見られないこの儀式をめあてに我も我もと参集した。ヒカルは最初から、
「無知蒙昧な者が席次を乱しては」
と、御簾の内に隠れてひっそり見物をきめ込んでいたが、会場は大盛況で用意された席だけでは足りず、大学寮の学生(がくしょう)たちが入れない。やむなく釣殿の辺りに押し込み、しかるべく禄も下賜した。
いつにない人だかりに、博士たちはやや緊張気味のようだが、
「遠慮することなく慣例のとおり、手加減せず厳格に行え」
ヒカルの命に強いて平静を装う。
居並ぶ文章博士たちは、明らかに借り物らしきサイズの合っていない装束類を委細かまわず不格好に着て、その癖表情や声遣いが如何にも威厳がましく、芝居がかったようにしか聞こえない。席に就いて並ぶ作法からして、誰も見たこともない珍妙な光景である。
若君たちは堪えきれずくすくす笑ってしまう。世話役には、むやみに物に動じない落ち着いた年長者を選出してあり、酌などもするが、定められた席次に応じてのはずが、来賓の右大将や民部卿などの杯をひたすらに満たしていく。
驚くほどの大音声で叱責が飛んだ。
「おのおの方!その垣下(えんが)ご相伴役は、はなはだ不作法にござる!これ程に明白な何某を知らずして、よくも朝廷にお仕えできるものだ!はなはだバカげている!」
どっ、と笑いが起きた。
「うるさいっ!お静かになさい!はなはだ不作法であるっ!退席していただきますぞ!」
さらに腹を立てて脅しつけるのが、なおのこと笑いを誘った。
初めて観る人々にはまたとない面白い見物であり、大学寮出身の上達部などはしたり顔に微笑みつつ、
「あえてこのような道を選んで、ご子息を大学寮に入らせるとはまことに結構なご判断」
ますますヒカル内大臣に敬服するのだった。
いちいち私語があるといっては制止し、無礼な態度といっては叱る、やかましいばかりの博士たちの顔つきは、夜に入り明るい燈火の下、ますます猿楽がましく貧相で見苦しさが際立つ。実に何から何まで普通ではなく風変りであった。
式が終わり退出しようとする博士、文人たちを召し出し、重ねて漢詩文を作らせることにした。上達部や殿上人もその方面に堪能な者はみな残らせる。博士たちは律詩、ヒカルを含め他の人々は絶句を作る。興趣ある題の文字を選び、文章博士が奉る。
短夜の頃ゆえに夜が明けても講義は続く。講師を務める左中弁は容貌の美しさもさることながら、声の調子も堂々としていて、漢詩を読みあげるにも荘厳な雰囲気が漂い、ことのほか味わい深い。さすがは世の信望厚き博士である。
「こよなき高貴な家に生まれ、この世の栄華をひたすら愉しまれてよい身の上でありながら、窓の蛍を友とし、枝の雪に親しむ学問への志やよし!」
とばかりに、思いつく限りの故事になぞらえて、それぞれが知力を尽くし作った詩句は面白く、
「どれもこれも唐土にも持って渡り伝えたいくらい、ハイレベルな詩作の宵であった」
と巷の評判となった。
ヒカルの作品は言うまでもない。父親らしい情愛のこもった詩句にみな涙を流し朗誦してもてはやしたが、女の身では知らないことを口に出すのは生意気だと思われそうで嫌なので、これ以上は書き留めない。
閑話休題。
はい、最後にまたまた紫式部さん出てきましたね。この、漢詩作文の宵については、もっと微に入り細に入って語りたかったでしょうに、「生意気だと思われそう」だからと止めちゃうという牽制。実際、この子が男だったらと親にまで言わしめた人ですから、漢詩への造詣の深さは相当なものだったのでしょう。別途書いてる気もするけど、物語に関係ないから残らなかったんだろうなあ。(ちなみにやはり橋本治さんの『窯変源氏』にはこの辺りももっと詳細に描かれています。さすがだ)
それにしても、大学寮の描写は中々赤裸々で面白いですね。見た目をかまいつけず、話し方も特有で、およそ風雅もへったくれもない。ただ、知識は豊富にあり漢詩文を書かせれば天下一品と、研究者肌(オタク風味)な感じは今と大して変わらないような気もする。ここには言及されてないけど、こういうの女房たちもお手伝いしたりしたんだろうか。紫式部も実際に目の当たりにしたか、父や夫に詳細な話を聞いたか、わかりませんが、この世界を笑いながらも憧れはあったかもしれない。
それにしてもヒカルの意外な教育パパっぷりよ。この、我が息子へのストイックな教育観はまんま紫式部のそれなんでしょうね。本来なら、大学寮で学ぶことを学んでから宮仕えすべきなのに、上級貴族は位階が最初から高いがゆえにバカ息子でも初めから結構な地位に就いてしまう。苦労するのは下~中流の貴族たちばかりなり、という図式をきっと父の姿から自分の身の回りから沢山見て来たんだろうと思います。
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