澪標 二
「見栄えのしない身の上となりますが、その分今後は気安くお目にかかれるかと」
と慰めの言葉をかけるのだった。
この譲位により政界も一変した。権大納言であったヒカルは内大臣に昇格、大殿の致仕大臣に若き帝の摂政を依頼した。
「若輩者の私はまだまだそのような職には堪えられません。どうか今再び重鎮のお出ましを」
「何を仰いますやら。病を理由に官職をお返ししましたのに、ますます老齢を重ねた今そんな重職はとても」
致仕大臣は固辞したが、ヒカルは引かない。
「外つ国でも、事変が起こり世が定まらぬ時に深山に身を隠した聖賢が、世が治まった時には白髪頭も厭わず現れて帝に仕えることもあるといいます。まして、病に沈んで返された官職、再び改められることに何の差支えがありましょうか」
この言が決め手となり、致仕大臣は太政大臣として新帝の摂政を勤めることとなった。御年六十三歳であった。
不遇をかこっていた子息たちも皆、表舞台に引き上げられた。宰相中将は権中納言に昇格、正妻・四の君が産んだ姫君が十二歳になったので、入内させるべく準備を進めている。かつて二条院で「高砂」を謡いヒカルが衣装を渡した若君も元服し、公達として申し分ない日々を過す。子だくさんで賑やかな親友の周りが、ヒカルは羨ましくてたまらない。
一方ヒカルの(公には)たった一人の息子は大殿ですくすくと育ち、内裏や春宮御所に童殿上していた。その抜きんでた可愛らしさに、葵上が生きていたなら……と母宮も大臣も改めて涙にくれるが、ここ数年欝々と沈んでいた大殿はすっかり息を吹き返した。ヒカルは折節ごとに邸を訪れ、昔と変わらぬ心遣いを示し、若君の乳母や女房たちをはじめ邸に残っていた忠実な人々に、各々の事情に合わせた様々な便宜をはかってやった。
二条院の人々はまして言うまでもない。ヒカルの不在中は紫上に従いしっかり勤めを果たした中将や中務といった女房たちを、再び東の対に戻し身分に応じた情愛をかけてやる。夜歩きをするような暇もなかった。
更に、二条院の東にある故院から受け継いだ宮の改築作業にも入った。「花散里などのような寄る辺ない人々を住まわせよう」という心づもりだ。
このように公私ともに多忙なヒカルであったが、明石の君のことを忘れていたわけではない。日々雑事に紛れ思うように消息も聞けないまま三月に入り「そろそろ出産では?」と人知れず気を揉むうちに、明石からの使者が到着したという知らせが入った。急ぎ帰参したヒカルに使者が吉報を告げた。
「十六日でした。女の子で、ご無事でございます」
久々の御子誕生、しかも初の女の子!ヒカルの喜びはひとしおだったが後悔も大きい。
「ああ、しまったな。どうして京に迎えて産ませなかったんだ。色々整えてやるにも、明石では遠すぎる」
宿曜の占いの結果が頭をよぎる。
「御子は三人お産まれになるでしょう。帝、后が必ず揃ってお立ちになります。その中の一番劣った方は太政大臣となり位人臣を極めるでしょう」
まさに、ひとつひとつ的中して来ているように思える。ヒカル自身についても
「最上の地位に昇り、政治を執り行うであろう」
と数多の有名な人相見たちがこぞって予言していたが、ここ数年来色々あり過ぎてすっかり頭から消え去っていた。現に今上帝……わが息子が即位したではないか!
(ただ、私自身が『最上の地位』に昇ることはあり得ないな。父は大勢の皇子たちの中で私を特に可愛がってくださったが、あえて臣下にしたお心からして帝位には遠い運命だったんだろう。誰も知らない、知られちゃまずいことだけど、人相見の予言は概ね外れていないということだ)
(住吉の神の導きとやらも本当にあって、明石の娘は世にも稀な宿命を持っているのかもしれない。それであの偏屈な父親も大それた志を抱いたと。そういうことであれば、やんごとなき筋に……皇后になるはずの姫が、あんな鄙びた田舎で誕生したのは気の毒だし畏れ多いことでもある。いずれ時が来たら必ずこちらに迎えよう。東の院の造成を急がなくては)
ヒカルは未来の皇后たる姫のために乳母を探した。都で暮らす、それなりに高い身分で教養も嗜みもある、子供を産んだばかりの、なおかつすぐにでも明石に移住できる女房。かなりハードルの高い要求ではあったが、そこは女房達の広いネットワークである。程なくうってつけの人材が見つかった。故桐壺院に仕えていた「宣旨」と呼ばれた女房の娘である。宮内卿の宰相を父として生まれたその娘は、母を亡くし一人きりで不如意な生活を送るうちに、言い寄って来た男と結婚をして子を産んだ。男の消息はすぐに途絶えたという。早速噂元の女房を召し寄せて詳しい事情を聞き、話をつけた。
娘はまだ若く世間知らずで、誰も訪れることもないあばらやで明け暮れぼんやり過していた。そこに突然飛び込んで来た乳母要請に
「内大臣って……まさかもまさか、あのヒカル大臣?! やりますやります!何でも!」
一も二もなく飛びついた。
さして深くも考えていなかったので、引き受けて準備はしたものの、
「明石か……けっこう遠いわよね。子連れでそこまで行くのも大変だし、職場だってどういうところなのか、どんな方に仕えるのか、全然知らないのに大丈夫?もしかして私騙されてない?ヒカル大臣って聞いて信用しちゃったけど、早まったかしら……」
くよくよ思い悩んでいると、家の外で呼ぶ声がする。もしやと思い戸を開けると、何とヒカルその人がひょっこりと現れた。人目を忍びに忍んでの直々の訪問であった。
「え?!本物?ええええ?!」
娘は碌に声も出せず、ただ
「仰せのままに!」
と繰り返す。
「今日は日柄も良いから、急ぎ出立してくれないか。必要なものはすべてこちらで用意してあるから、貴女はお子さんだけ抱いていればいい。突然で訳が分からず心配だとは思うけど、少々事情があってね。私自身も慣れぬ住まいには苦労したから気持ちはよくわかるが、どうか暫くの間辛抱してもらえないだろうか」
必殺キラキラ☆オーラ全開で、事の次第を詳しく説明するヒカル。
帝付きの宮仕えも時折していたらしい娘の顔には見覚えがあった。が、すっかり窶れていて、人気のない家は荒れ果てている。大きな屋敷で木立も鬱蒼と茂り、かつてはそれなりに栄えた痕跡がありありと残っているというのに、どこでどう間違ってしまったのか。だが娘本人は天真爛漫で、若々しく愛嬌があって感じが良かった。
「明石にやらず私の方に置いておきたい気もするな。どう?」
などと軽口を叩くと、
「イイですね!同じ事なら、お傍近くに仕えさせていただいた方が我が身の不幸も慰められましょう!」
ノリがいい。ヒカルは面白くなって歌を詠む。
「以前から特に親しい仲だったわけではないが
別れは惜しい気がするものだ
後を追っていこうかな」
娘はニッコリ笑って、即座に返す。
「口から出まかせの別れを惜しむ言葉にかこつけて
私ではなく、恋しいお方のところに行きたいのではありませんか?」
(ああ、この当意即妙、機転の利いたオシャレなやりとり。まさに私が求めていたものだ)
心の中でガッツポーズするヒカルであった。
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