戦争調査会 幻の政府文書を読み解く
父が生前繰り返し言っていたのが
「日本人は第二次大戦の総括をしていない」
だった。ズタボロにやられた敗戦国の日本、戦後の混乱の中他に優先するべき事項がありすぎて、とてもそんな余裕が無いまま来てしまったんではなかろうか、と何となく思っていたが、そうではなかった。直後にこれだけのことをやっていたのだ。だがこの調査は中断され、資料は東京裁判にも活かされなかったばかりか、2016年に公刊されるまで、国立文書館および国立国会図書館憲政資料室の中で眠っていたという。
今のコロナ騒ぎでも、何でも国のせいにして陰謀論やニセ情報を信じ込んだり、マスコミの煽りに乗っかって騒ぎ立てたりという人はいっぱいいる。戦争が終わってこれほど時が過ぎても実は日本人あんまり変わっていないんじゃないか……と怖くなる。未知の危機に対峙したときどういうことが起きるか、どういうことに気を付けた方がいいのか、過去の様々な事例が教えてくれる。待てよこれはよくある騙しのテクニックじゃないか、煽られてるんじゃないか、と立ち止まって考えることができるかどうか。歴史を学ぶ意味はまさにここにあるのだと思う。
自分自身の理解のため、例によって講義ノート的にまとめておく。赤字は私のツッコミ。
帯より:
1945年11月、幣原喜重郎内閣が
立ち上げた国家プロジェクト=戦争調査会。
多数の戦犯逮捕、公文書焼却という困難のなか
おこなわれた40回超の会議。
日本人自らの手で開戦、敗戦の原因を明らかに
しようとしたものの、GHQによって1年弱で
廃止された未完のプロジェクトの全貌。
調査会のメンバーは以下の通り。
総裁:幣原喜重郎
副総裁:芦田均
長官:青木得三(庶民金庫理事長)
5部会(1政治外交・2軍事・3財政経済・4思想文化・5科学技術)
部会長:斎藤隆夫、飯村穣、山室宗文、馬場恒吾、八木秀次
委員(20名)
臨時委員(18名)
専門委員(3名)
参与(8名)
各部会の下に調査室設置
用務:
1)委員の就任内諾交渉
2)広範囲の資料収集
3)本格的な調査報告の作成
調査会に対する大手新聞社などの論調(認識がだいぶちがう)
読売報知新聞:戦争調査会が「ほんの申訳的に」日本の敗戦の責任を問おうとしていることを疑問視、「何故に侵略戦争を開始したかという戦争挑発の責任」を問題にすべき
朝日新聞:「政府の企図する戦争調査に対して、われらは固よりさしたる期待すら持ち得ない」人選に疑問
徳富蘇峰:負けた側が負けた側を裁くとは論外
なんでマスコミはやらなかったのかね?そして謎の上から目線。蘇峰さんは単なる勘違いだけど
<第一回総会>
幣原総裁の示した基本方針:
1)戦争調査会は「永続性」を帯びている
2)戦争犯罪者の調査は「別に司法機関とか或いは行政機関」が担当すべき
3)歴史の教訓を後世に遺し、戦後日本は「平和的なる、幸福なる文化の高い新日本の建設」に邁進すべき
東京裁判とは異なる戦争責任の追及:事務局作成の基本方針
「戦争責任は、マッカァサーの云う戦争責任と範疇を異にすること即ち戦争を傍観し敗戦を拍車した者の責任も問わるべきこと」→傍観者の不作為の責任まで追及するという意気込み
二回の総会後決定した「調査の目標方針及方法」
1)戦争原因の追究をめざす。個人の戦争責任の追及はおこなわない。戦争に向かった近代日本の構造分析を志向。
2)調査結果は戦後の平和国家の建設に役立つものとする。
3)調査は多様な手法によっておこなわれる。(ただし国際監視下での調査活動であることに幣原が注意喚起)
第三部会(財政経済)
1)公債(戦時国債)の発行の結果「経済金融の実勢に適合せずして発行が可能であるから戦争を楽に考えた」。戦費調達に対する安易な気持ちが戦争を招いた
→戦中から戦後にかけてのインフレ
2)軍部責任「軍部の機密に藉口して軍事予算に対する査定並に審議権を無視した」
→安易な軍備拡張と戦争準備が可能になった
3)経済上より見たる日本の膨張政策」
→人口過剰と資源不足を補う目的で戦争を始めた
4)資本主義本来の「性格」、加えて「一部事業家の膨張政策」
5)経済新体制運動。現状を打破し「全体主義、超国家主義」的改革を志向する官僚が経済新体制を作ろうとした結果
他、
・官僚統制の煩瑣が生産増強を阻害
・生産技術の不十分な発達
・戦時即応の企業体制の整備不足
・生産と経営に対する軍部の干渉
・空襲に対する計画的防衛を怠った
・経済統計と経済調査の不備、不完全かつこれらを無視した「非科学的観察」
反論(渡辺)
1)日本の経済力の過信(英米との比較を通して)→違いを調査するべき
2)「領土的拡張で行かなければならぬという考えが勝った」→人口問題や資源不足が誘因ではない
3)戦時経済状況、特に中国の占領地域における経済工作がインフレを引き起こした過程も研究すべき
第四部会(思想文化)→総括的な事柄を取り扱う部門と位置づける
幣原と馬場との論争:
「満州事変を起す前に、むしろ堂堂と国際連盟なんかに訴えて、如何に日本人が圧迫されているかということを明かにしたら、或いは満州事変を起さないでも何かもっとよい分別があったのではないかと思う…」→満州事変が起きなければ、日中戦争も起きなかった。
→中国ナショナリズムへの対応の仕方如何で戦争を回避することができたことを示唆
調査すべき項目
・軍部による「言論抑圧とかその他非合法事件」
五・一五事件、二・二六事件
・どうして国粋主義、国家主義のようなものが勃興したか
テロとクーデター事件の連続
個別ではなく全体を俯瞰してみなければならない、結論は後回しにしてさきに資料を集める。戦争に至る経緯の全体像は、時間と場所を隔てなくては描けない。
連合部会(1政治外交・2軍事・4思想文化)
日米開戦の回避可能性は二度
1)1941年10月、近衛内閣が倒れた直後
東條内閣ではなく東久邇宮内閣が成立していれば?
→皇族内閣が軍部をコントロールできる保証はない、東条は和戦両様の構えだった
→調査すべきは皇族内閣が成立しなかった原因ではなく、東条内閣の対米開戦過程である
2)1939年平沼内閣退陣にともなった米内光政海相・山本五十六海軍次官の交代
「日独伊防共協定強化に反対の立場だった二人の任期が続いていれば、三国同盟は出来なかったと思う。ならば米国の感情もあれ程に悪化しないで、戦争を避ける機会があった」
→山本が次官として三国同盟を阻止しようとすれば、当時の情勢としては命の危険があった
〇この二つのチャンスを逃しても、回避の可能性は残されていた:
「岩畔豪雄少将がワシントンで日米交渉試案の成立談判に御尽力なさり、私共はあの試案が本当に真面目に採り上げられて談判の基礎となったならば、日米開戦ということは避けられたと思う」(馬場)
対日理事会
〇米vsソ英中の図式が多かった。日本はその中で孤立しがちだった米にも冷淡に扱われた。
〇食糧危機問題(1946年前半最も苦しかった)
→アメリカは同情的(ただし道徳的というより占領政策遂行のための現実的観点より)
→イギリスは冷酷「侵略国日本は周辺諸国に比し多少飢餓に襲われ、又配給の引下げが行われるとするも右は止むを得ぬことではないか」イギリス相変わらずヒドイ
→この意見にはソ連さえも与さず、食料輸入問題を研究するグループ設置を提案
〇戦争調査会の問題を提議
米ソ中は当初特に問題とせず。
イギリス:目的が不明瞭、将来の戦争の回避か、将来の戦争の敗北の回避か。調査結果が東京裁判の結果と一致しなければ容認しないと言い切る(マクマホン)
→ソ連、解散を勧告と強硬論主張「若干の日本人が今次戦争を正当化する具に成り得るかもしれない」
軍需産業への未払い問題、賠償金問題、米ソの公職追放問題をめぐる対立と相まって「調査会」問題は脇に。
しかし委員の中に軍人出身者がいたことを突っ込まれ、余計な対立を生みたくないアメリカも理事会の協調を重視し、形としてはGHQ指示で解散・廃止に追い込まれた。アメリカは立場弱かったのね案外
戦争の起源は?
〇八木秀次(科学技術部会長)
・明治維新まで遡る必要がある、なぜならば「統帥権の独立」が戦争の原因だから。
「統帥権の独立が軍に過大なる、分不相応なる政治力を与えたと云うことを強調しなければならぬ」
・明治維新には戦争が組み込まれていた「明治維新と云う事業の結果として一種運命的なものであった」 →理系の人が運命的と言っちゃうのか
〇平野義太郎(マルクス主義法学者)そして文系(?)が運命論を否定
運命論とは異なる立場から「明治に於ける日本資本主義発展が東洋に於て果した進歩的意義は無視し得ない」「資源不足問題を国際条約に依らず暴力に依った点が問題」「国際連盟が其の機能を充分に果たさなかった点が又問題とされねばならぬ」国際機関は残念ながら今もダメダメ
〇馬場恒吾(思想文化第四部会長)
・日露戦争は「帝国主義的侵略」戦争ではない
・レーニンは帝政ロシアの打倒を日本に期待し、日露戦争に勝った日本に感謝した。だがスターリンは「帝政ロシアの復讐戦争」として日ソ戦を戦った。「その時分には自分の味方みたいに言って、今になって日本は怪しからんと言うのは、僕は怪しからんと思っているのだ」お前が言うな案件
・明治国家に対外膨張志向があったことは認めるが「それを一概に帝国主義といって排撃すべきものかどうか、若しそれを帝国主義というならば、すべての国が帝国主義だ」と、帝国主義の時代に帝国主義と批判することの無意味を指摘。お前らが言うな案件
〇徳富蘇峰
・「大正の中期迄は、殆ど一切の事が秩序整然として、明治天皇の平和の意思を遵奉して行った」
・近代日本の中国認識が日本の破滅を招いた。「今少し日本人が支那を知り、支那を研究し、支那に向って善処する途を得たならば、今日の如き事には立ち至らなかったと思う」「支那人にとりて最大の禁物は、干渉政治」「干渉もせず、放任もせず、彼等を誘掖し、彼等を啓発し、彼らと協戮し、彼等と提携せねばならぬ」これ今にも通じるのでは
〇幣原総裁
・起源は第一次世界大戦である。
第一次世界大戦→輸入超過の貧乏国から戦争景気に沸く・風紀紊乱→関東大震災→再び輸入国へ転落→財政緊縮による経済立て直し→軍縮の流れ→戦後の平和とデモクラシー潮流による軍部の地位の貶め→軍部を追い込み、反発に繋がった?
「我々が余り財政緊縮を主にして、不必要に色々な方面の反感を惹き起こしたと云うことも、実は私等の責任のように考えて居って、何とか他の方法はなかったものかと近頃は胸に手を当てて考えて居ることがあるのです」
〇渡辺鐵藏
・原因は軍部の反乱事件である二・二六事件であり、その思想的な起源は北一輝の著作「国家改造案原理大綱」である。よって戦争の起源はこの著作が執筆された1919年(大正8年)である。
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第一次世界大戦後の日本
・「平和とデモクラシー」到来による軍人受難の時代
・軍縮の一方で大衆消費社会の「デモクラシー」状況→安田財閥の創立者が国家主義者のテロリストに刺殺される 今でいう無敵の人ですねわかります
・他方で軍部内(とくに陸軍)から総力戦体制の確立をめざす勢力が台頭。国民と一体化した陸軍に改める必要を感じていたが、満蒙問題は話された形跡なし→戦争の直接的な起源はここにはない
・日本全権団がようやく米英と合意に達したロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐって、政友会が浜口内閣の「軟弱外交」「統帥権干犯だ」と非難→政治問題化(内閣を倒したいがための)。ちなみに統帥権干犯は北一輝による造語。→こいつホントに碌なことしない
・これにより海軍内の国家革新熱を扇情、浜口首相が狙撃される。
・満州事変の不拡大の可能性:協力内閣構想が実現しなかった理由は?
・積極政策の政友会、緊縮政策の民政党は協力しあえず、二大政党制の限界が露呈。
・「リットン報告書」の読み違え:満州国の存在を否認していると「誤解」、鈍感な反応を示した日本
・1933年(昭和8年)、国際連盟からの対日非難勧告に反対した日本は国際連盟からの脱退を正式に通告。
・五・一五事件で犬養首相暗殺、海軍穏健派の斎藤内閣に。
・高橋是清の財政改革
1)金本位制からの離脱にともなう円安誘導→輸出振興
2)低金利による金融円滑化
3)財政支出の拡大
→経済回復、輸出増加の局面で「対満州投資抑制を提言」。財政健全化に舵を切った。
・二・二六事件により高橋含む自由主義陣営が暗殺される。主導した非合法派は駆逐され、合法派は自由陣営との連携を断ち切り自立。事件後に成立した広田内閣において軍部大臣現役武官制を復活。高橋是清を喪ったのは痛い
・宇垣内閣は実現せず、林銑十郎内閣は早々に総辞職。軍部の政治支配には限界があり、戦争は回避可能だったが、政党内閣は復活しなかった。
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起きた戦争を早期に集結できた可能性
盧溝橋事件後
1938年1/16、近衛首相が「国民政府を対手とせず」の声明を発表、早期解決の見込み失われる
〇宇垣外交、池田蔵相(親英米派)のタッグでの和平工作
→7/7東京朝日新聞「きょう事変一周年・我等の決意固し」の大見出しで近衛の記者会見での発言を報じる「今後いかなる事態が起って来ても国民政府を対手とすることはあり得ない」。1/6の声明の保持…
→和平工作に深刻なダメージ 何してくれてんのこれ。実際に近衛首相がそんなことを言ったのか今のマスコミを見てると疑わしいが、後で訂正もしていないから本当なんだろうな。何でだ!
宇垣は孤立、辞任。近衛内閣も翌年総辞職。
〇再び近衛内閣
1940年 南部仏印進駐 近衛さんは自決しないでちゃんとこの辺説明してほしかったわ
北進論の抑制が目的だったが、対米英戦争の戦略的な拠点にもなり得る
→7/25在米日本資産の凍結、8/1対日石油禁輸
〇近衛内閣下での日米交渉(1941年4月~)
野村駐米大使と松岡外相:松岡は日米了解案の内容がのめない
松岡外交はアメリカの圧力に対抗しようと三国同盟を結ぶ(そもそもこういう後ろ盾がないことには対話の席にすらつけないという認識があった)
→アメリカの態度はいっそう硬化
野村は三国同盟によるイデオロギーの対立図式が権力政治に及ぼす影響を憂慮
松岡外相は更迭、第三次近衛内閣にて合意形成をはかったが、
10/12東条陸相が撤兵に反対。日米交渉がまとまる可能性はなくなった
10/16第三次近衛内閣は総辞職。
〇戦争への分岐点は1941年6月の独ソ戦の開始
この前であれば、日米了解案の成立によって開戦回避が可能だった?
東条内閣:和戦両用で交渉に臨んだ→開戦回避の可能性はあるが乏しい
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〇軍部、とくに海軍への非難(南洋毎日新聞 鈴木)
1)杜撰な作戦計画
2)退廃
サイパンの玉砕は1944年6月11日。
〇ミッドウェー海戦=不要不急の作戦 ←今聞くと特になんだかな…
岡田菊三郎談話記録(1946.5.23)
「初めからハワイを奇襲した序でに、なぜハワイを取ってしまわなかったのか」「あのとき一挙にハワイをすぱっと取ったら、大分異なった情勢が生れたのでないか」取ったところで維持するのは厳しい気もするが…
→実際には、真珠湾攻撃の翌年5月、東条首相は南方の兵力を十万引き上げる、学徒動員もこれ以上やらないなどとまるで戦争終結に向かっているかのような演説をしている。
→1943年6月ミッドウェー大敗、日米の攻守逆転
「あの前は向こうの艦隊をばっさりやってしまって太平洋を横行しておったので、何もこんな拙いことに急になるべき筈でなかった」
敗因の一つは「電波兵器」(レーダー」
米国のレーダーに用いられていたアンテナ技術は、特許期限切れの「八木アンテナ」。
特許を切らすことは敵国にみすみす最先端の軍事技術を手渡すに等しい
しかも陸海軍が相互に研究を教えていない
→国を挙げて高性能のレーダーを大増産するアメリカにこの点でも負けていた
というか全部傍受されてたんですよね。工作もやりたい放題
〇ガダルカナル島
放棄すべきという論(岡田)
「勝利」とは相手国の戦争意思を放棄させることである、このような「勝利」は「見込みがないと考えた」
軍部は「勝利=妥協を望んでおった。つまり妥協的平和、妥協的講和を望んでおった」
〇技術者への蔑視、人材の枯渇
工場から熟練技術を持つ者をどんどん徴兵して、吟味もせず漫然と配置した。
〇物資動員計画の未達成
「計画とその実施にイニシアチーブを採った軍部官僚の経済認識の過少或いは軍内部に於ける陸海双方の協力性の欠如」(計画立案の中心にいた稲葉秀三)
「私の痛感したことは総力戦争に於ける経済の重要性を口で主張する、或いは肯定するということと、それを具体的に認識し、実行するということは別なことであるという事である」「総動員に対する殆ど準備なしに戦争に突入した」今でも割と同じだったり
「国民生活用の資材を減らしては駄目なものについては飽く迄その最低限の確保を図る」ことを前提にしたが現実は違った。今でもry
「物動計画運営より観たる大東亜戦争推移」戦争調査会事務局の調査官作成
→「物動の決定は企画院(軍需省)が策定は舌が実際的指導方策は全く陸海軍省の握る処であった」
・軍部を統合する強力なリーダーシップを持たない日本は戦う前から敗北していた つまりはまごうかたなき民主主義国家だったということだ…
・日本は自らが招いた戦争によって生産力を破壊した。しかし戦争が日本の工業化の促進要因だったことも否定できなかった。
〇戦争終結外交
1)対ソ外交への過度な期待
外務省本省・モスクワの日本大使館もソ連の仲介を求め続けたが
4/5日ソ中立条約の不延長通告
→それでも交渉続行:アメリカの方が苛烈な条件かもという見込み
ソ連に無条件降伏(佐藤駐ソ大使)有条件降伏(本省)で和平の仲介を求めたが、どちらに対しても「開戦通告」。北海道は危なかった。父はソ連は信用ならんとずっと言ってた
8/10、8/14の二度の聖断によりようやくポツダム宣言受諾、終戦。
〇戦争調査会のその後
・財団法人「平和建設所」の設立を目指すもGHQに認められず。
・幣原の没後「幣原平和財団」が設立。ただし幣原の伝記の編纂事業であり、戦争調査会の資料の直接的な引用はない。
・「太平洋戦争前史」全六巻 青木得三は東京裁判の史料に依拠。戦争調査会の資料は活用していない。
・「日本外交の過誤」吉田茂が外務省に指示してまとめさせた報告書。
戦争調査会が今日の日本に投げかける問題
1)戦争責任の問題
戦争調査会における戦争責任:
「戦争を挑発し、起し、拡大遷延せしめた責任」に留まらず、
「戦争を傍観し敗戦を拍車した者の責任」と広く定義していた。
戦争調査会において
「戦争は悪くなかった、敵が悪いのだけれども、負けたから、皆悪いことを日本が背負って居るのだ」このように考えて反省しない民衆の戦争責任の問題が議論されていた。
2)戦争体験の継承問題
戦争調査会の報告書を「非常に価値のある有益なる参考書類」として備えるべき。
直接的な体験者がいなくなって長い年月が経っても、全体像を考え続ける歴史的な想像力を鍛えなければならない。
3)歴史研究の問題 ※著者の意見
「歴史研究者は書店に溢れる怪しい昭和史本を冷笑する。問題はそのような本が売れる日本の社会状況よりも、なぜ研究の成果が広く共有されないかにある」うん。冷笑するんじゃなく、何とか一般に伝える方法を模索してほしい。どんな本であろうと入口ととらえてほしい、読む方も書く方も。
「戦争調査会の目的は戦争防止と平和な新国家の建設だった。…研究のための研究ではなかった、」
「今問われるべきは歴史研究の社会的な責任である。一次史料の発掘と新しい歴史解釈の目的は、先行研究に対するわずかな優位性を主張するのではなく、社会の求めに応じて、あるいは社会に向かって、歴史理解の指針を示すことでなくてはならない。戦争調査会に学ぶべきは、社会に役立つ歴史研究の重要性である。」
以上。
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