しゃぼんだまによせて 序

高台にある墓地からは、遠く海が霞んで見える。 大きく枝葉を広げた樫の木がつくる蔭はひんやりと心地よい。そのなかを風が通るたび、葉の間に射しこんだ光が波をつくって揺らめく。眠たげな羽音を立てながら、花の間を忙しく飛び交う蜜蜂。この北の地にもようやく、遅い春がやってきたらしい。
 男は随分と長いこと座り込んでいた。
 家を出たのは確か八時前、先ほど鳴っていたのは九時を伝える鐘。あれから何十分、いや何時間経っただろう。日は大分高く差し昇ってきたようだが。
 男が座る脇には、線香の箱と数珠、花を供える際に折ったりむしったりした茎や葉を包んだ紙が置いてある。足元には柄杓と手桶。墓参りはとっくに済んだ。あとは帰るだけだ。なのに足が動かない。全身が冷たく固い石になって、凍りついているかのようだ。
 今男がいるのは、墓地の中心にある小高い丘の上だ。墓は無く、長椅子代わりの丸太がゴロゴロと置かれ、ちょっとした展望台風になっている。以前から上り路があるのは気づいていたものの来たのは今日が初めてだったが、此処からの眺めは予想以上に素晴らしかった。澄み渡った青空と、あたたかな日差しと、緩やかな風に揺れながら香る花々と。軽く伸びをしながら、春爛漫の大気を一杯に吸い込んだ。
 その中に微かな線香の匂いを嗅ぎ取ったその瞬間、重石が乗せられたように胸が詰まった。
 さっき花を供えたばかりの小さな墓石。
 其処で眠る我が子がこの景色を見ることは無い。それどころか、空も太陽も海も花も、およそこの世にあるもの全て、何一つ知らないまま逝った。生まれて八日目、霙まじりの冷たい雨が降りしきる朝に。
 
 大人になるまで生きられない子は決して少なくない、うちだけじゃない、誰にもどうにも出来なかった、仕方のないことだ。そう言い聞かせてきた。身も世もなく泣き続ける妻に、自分自身に。
 男は唇を噛んだ。
 ふざけるな。
 たった八日だぞ。何が仕方ないんだ。うちだけじゃないからって、それが何なんだ。こんな……こんな惨いことが当たり前であっていいはずがない。
 まだ目もあいていない新生児の、ちいさな手が握る力の意外な強さ、ふんわり熱を帯びたその息、乳の匂いを思い出そうとした。永遠に忘れられないだろうと思っていた記憶は、すでに薄れ始めている。忘れたいことも忘れたくないことも、有形無形にかかわらず、すべて容赦なく過去へと押し流されていく。あの子は確かに生きていたのに。たった八日間だが生きて呼吸していたのに。
 そんな短い命にどういう意味があるのだ!
 はじめから存在していなかったと言ってもいい程じゃないか。無かったことにしてもいいくらいじゃないか。神だか仏だか知らないが、何故態々此方に寄越したんだ。こんなに早く、こんなにあっけなく彼岸へと戻されるのならば何故。行き場を無くした愛しさと、吐き出しようのない怒り、胸一杯に詰まったこのつめたく尖った塊をどうすればいいのだ。頓着なく急速に次へ次へと向かうこの世界で、崩れて消え去るに任せるのか。
 ……いやだ。そんなのはいやだ。
 ではどうすればいい?
 これから何処に進めばいい? 何をすればいい? 何が出来る?
 わからない……動けない。
 男の目に映る風景が次第にぼやけて形を成さなくなっていった、そのとき。

 ふわり。
 虹色に輝く丸いものが飛んできた。
 そして目の前で、ぱちん、と消えた。
 あ、と思うまもなく、ひとつふたつ、三つ四つ、次々に飛んできた。きらきらきら。木や花や鳥の姿、空の色を映しながら、たくさんの光の玉が群れをなして飛んでいく。
「あらあら、ごめんなさいね。花ちゃん、ダメよ、こちらでなさい」
 小さい女の子、五歳くらいだろうか。一心にしゃぼんだまを吹いている。
 かまいませんよ、と言おうとした。が、言葉にならない。膝の上に握りしめていた手に熱いものが落ちた。咄嗟に頬を触ると滂沱の涙だ。驚いた、いつのまに泣いていたのか。
 母親は黙って、子供の手を引こうとした。だが女の子はその手を振り払い、こちらに駆けてきた。
「小父ちゃん」
 曇りのないまっすぐな瞳。まともに顔を上げられない。涙は止まらずに流れ続ける。
「……あのね、これ、あげる!」
 いやそれは、と立ち上がった男に、
「しゃぼん、まだいっぱいおうちにあるから!」
 瓶とストローを押しつけるように渡すと、女の子は母の元に走り去っていった。女の子の手を取りながら軽く会釈した母親に、深々とお辞儀を返し、顔を上げると、もう二人はいなくなっていた。

 そのまま長いこと男は立ちつくしていた。
 雲雀が一声啼いて、すぐ頭上を飛び去った。

 男はぎこちなく、しゃぼんだまを吹き始めた。
 墓のすぐ前に戻って吹こうかとも思ったが、景色のいい此処のほうが、あの子が喜んでくれる気がした。
 くるくる、きらきら、……ぱちん。
 たくさんのしゃぼんだまが生まれ、飛び、消えていく。
 吹くそばからすぐに消えるものもあれば、風に乗って空の高みへと舞い上がるものもある。行方はわからない。どちらにせよ、いつかはかならず消える。生まれて、消える。生まれて、消える。その繰り返し。
 男は瓶が空になるまで吹きつづけた。

 男は歩き出した。
 緩い坂を降りきったところが墓地の出口だ。男の家はそこから十数分ばかり歩いたところにある。妻はきっと昼餉の用意でもしているだろう。はやく帰ってやらなければ。
 曲がり角で、男はふと後ろを振り返った。誰もいない。ただ微かに潮の香りを含んだ風が、男の顔を包むように渡っていった。

<つづく>


※2006年頃書いた「しゃぼんだまによせて」、一応完結はしているのですが、中途半端なところで終わってしまって心残りだったので、若干書き直しと書き加えをしつつここに再掲します。順次、まとめサイトのほうに縦書きでアップもする予定。
※史実、野口雨情さんの生涯とその歌曲をモチーフにはしておりますが、人物も出来事も全くのフィクションです。

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