「七人の侍」黒澤明(1954)
ふと思いついて観た。子供の頃何回も何回も観ていたはずのこの不朽の名作。今フルヴァージョンを観てみたら、超絶長いのにダレない飽きない、何から何まで素晴らしい。この登場人物、このアングル、このタイミングのこの動き、セリフ回し。如何にこの作品が他の映画やドラマ、漫画などに影響を与えまくったかがよくわかる。カメラワークは勿論のこと、特に脚本の完成度は神がかり。無駄なセリフや場面はひとつとしてない。全てがこの映画を形作る必要不可欠なパーツとして適切に機能している。
人を惹きつけるとはどういうことか、次は?次は?と観続けさせるためには何が必要か、考え尽くされ計算し尽くされている。「面白さ」にはちゃんと理由があるということを、この歳になりようやく理解できた気がする。
着物の着付け方着こなし方もいい。モノクロ画面からもうかがえる、着慣れた感と煤けた感。今の若者の体型と雰囲気だとこういう「無頼漢」的なのはもう無理だろうなあ、清潔感がありすぎて。若い三船の眼力と迫力、更にこの凄まじい色気ときたら!破天荒でメチャクチャだが魅力溢れる菊千代役がピッタリはまる。これも他の六人が「武士」であり、居住まいから言葉遣いから「百姓」とは一線を画す格があるからこそ引き立つ個性である。
そして戦後十年も経たないうちに製作・公開しただけあって、「戦い」が生々しい。戦の装備やスキルを持つ野武士集団に対抗するには、同じ武士に頼むしかないという現実的な判断も、当時なら誰もが当たり前に理解できただろう。「民の願いに応えた志あるプロフェッショナルが村を要塞化、村民を統率し戦略を立て動かし勝利を得る」「だが戦いが終わってみれば武士は用済みとなり元の根無し草、弱き身であるはずの農民は土地にしっかりと腰を据え生き生きと暮らしていく」この図式に、敗戦後の日本人は心底痺れただろうと思う。
ついでにハリウッドのリメイク「荒野の七人」も久々に観かえしたが、こちらは古き良きマカロニウェスタンを下敷きにした全くの別もの映画。とはいえ音楽も映像も素晴らしいしユルブリンナーがメチャクチャカッコいい!
ただ黒澤監督は宮崎駿との対談で「ガンマンをならず者にしたのは失敗だった。南軍の元将校(という設定)の方が良かった」と語っているという(wikiより)。確かに、その方がより最後のセリフ「俺たちが勝ったんじゃない、農民が勝ったんだ」という言葉が活きる。なんにし終生「プロの仕事」に拘り抜いた監督ならではの言葉だと思う。
追記)
「七人の侍」の中で、侍の一人と村娘の恋のエピソードがあるんだけどこれが面白かった。出会いはよくある、山の中のお花畑でボーイミーツガール(笑)。娘の方が積極的でガンガン迫るんだけど若い侍は腰が引け気味。決戦前夜にやっと結ばれるが、これもほぼ女から襲った感じ。しかも悪い事に娘の父親に鉢合わせして父激怒、娘をバシバシひっぱたいて大騒ぎに。現代ならばここで相手の侍も出て娘を庇ったりしそうなもんだけど、一切出てこないのよ。周囲は侍も村人も、まあまあええやん好き同士なんやし決戦前夜で死ぬかもわからんのやし、となだめる中、誰もこの若侍を、お前も謝れと引っ張り出すことはしない。一緒に戦うことは出来ても、対等ではないという現実。
だからこそ最後のシーンに説得力が出る。戦が終わった平和な村で、まだ気持ちが残りながらも若侍を無視して田植えの列に加わる娘。武士と農民が一緒になることは出来ない、元々別世界の人だよと仕草で語る。ある意味潔い。一方「荒野の七人」では若いガンマンが村娘と共に生きるため引き返す。こちらは「ならず者」で自由な立場だったからこそ出来たこと。当時の日米の社会の違いがはからずも如実に出ていて興味深かった。

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ふと思いついて観た。子供の頃何回も何回も観ていたはずのこの不朽の名作。今フルヴァージョンを観てみたら、超絶長いのにダレない飽きない、何から何まで素晴らしい。この登場人物、このアングル、このタイミングのこの動き、セリフ回し。如何にこの作品が他の映画やドラマ、漫画などに影響を与えまくったかがよくわかる。カメラワークは勿論のこと、特に脚本の完成度は神がかり。無駄なセリフや場面はひとつとしてない。全てがこの映画を形作る必要不可欠なパーツとして適切に機能している。
人を惹きつけるとはどういうことか、次は?次は?と観続けさせるためには何が必要か、考え尽くされ計算し尽くされている。「面白さ」にはちゃんと理由があるということを、この歳になりようやく理解できた気がする。
着物の着付け方着こなし方もいい。モノクロ画面からもうかがえる、着慣れた感と煤けた感。今の若者の体型と雰囲気だとこういう「無頼漢」的なのはもう無理だろうなあ、清潔感がありすぎて。若い三船の眼力と迫力、更にこの凄まじい色気ときたら!破天荒でメチャクチャだが魅力溢れる菊千代役がピッタリはまる。これも他の六人が「武士」であり、居住まいから言葉遣いから「百姓」とは一線を画す格があるからこそ引き立つ個性である。
そして戦後十年も経たないうちに製作・公開しただけあって、「戦い」が生々しい。戦の装備やスキルを持つ野武士集団に対抗するには、同じ武士に頼むしかないという現実的な判断も、当時なら誰もが当たり前に理解できただろう。「民の願いに応えた志あるプロフェッショナルが村を要塞化、村民を統率し戦略を立て動かし勝利を得る」「だが戦いが終わってみれば武士は用済みとなり元の根無し草、弱き身であるはずの農民は土地にしっかりと腰を据え生き生きと暮らしていく」この図式に、敗戦後の日本人は心底痺れただろうと思う。
ついでにハリウッドのリメイク「荒野の七人」も久々に観かえしたが、こちらは古き良きマカロニウェスタンを下敷きにした全くの別もの映画。とはいえ音楽も映像も素晴らしいしユルブリンナーがメチャクチャカッコいい!
ただ黒澤監督は宮崎駿との対談で「ガンマンをならず者にしたのは失敗だった。南軍の元将校(という設定)の方が良かった」と語っているという(wikiより)。確かに、その方がより最後のセリフ「俺たちが勝ったんじゃない、農民が勝ったんだ」という言葉が活きる。なんにし終生「プロの仕事」に拘り抜いた監督ならではの言葉だと思う。
追記)
「七人の侍」の中で、侍の一人と村娘の恋のエピソードがあるんだけどこれが面白かった。出会いはよくある、山の中のお花畑でボーイミーツガール(笑)。娘の方が積極的でガンガン迫るんだけど若い侍は腰が引け気味。決戦前夜にやっと結ばれるが、これもほぼ女から襲った感じ。しかも悪い事に娘の父親に鉢合わせして父激怒、娘をバシバシひっぱたいて大騒ぎに。現代ならばここで相手の侍も出て娘を庇ったりしそうなもんだけど、一切出てこないのよ。周囲は侍も村人も、まあまあええやん好き同士なんやし決戦前夜で死ぬかもわからんのやし、となだめる中、誰もこの若侍を、お前も謝れと引っ張り出すことはしない。一緒に戦うことは出来ても、対等ではないという現実。
だからこそ最後のシーンに説得力が出る。戦が終わった平和な村で、まだ気持ちが残りながらも若侍を無視して田植えの列に加わる娘。武士と農民が一緒になることは出来ない、元々別世界の人だよと仕草で語る。ある意味潔い。一方「荒野の七人」では若いガンマンが村娘と共に生きるため引き返す。こちらは「ならず者」で自由な立場だったからこそ出来たこと。当時の日米の社会の違いがはからずも如実に出ていて興味深かった。
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