おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

桐壺 三

2019年5月3日  2022年6月8日 
はかなくも日々は過ぎてゆきます。暫く続いた法要に、都度細やかなお心遣いをかけていらした帝でしたが、ひと段落してみると悲しみは癒えるどころかなお増すばかり。女御さま方の局に泊まることも絶え、ただ涙にくれて過しておられました。まことに、拝謁の方々さえも湿っぽくなりがちな秋でございました。
「亡くなった後まで人の心を晴れさせないようなご寵愛でしたこと」
などと弘徽殿の辺りではなお容赦ない物言いでございましたが、帝は第一皇子にお会いするたびに忘れ形見である若宮を愛おしく思い出されるようで、お傍付きの女房や乳母などを遣わして様子を尋ねていらっしゃいました。

 わたくし靱負命婦が若宮の元に派遣されましたのは、野分立ちにわかに肌寒くなった夕暮れでございました。夕月夜の美しい時刻に出立をお命じになり、帝はそのまま物思いにふけっておられます。このような折には管弦の遊びなど催すものですが、とてもとても……亡き御息所の掻き鳴らす琴の音が際立って優れていたこと、何気ないひと言も類まれなお人柄を表していたこと、いくら面影に寄り添い思いを馳せても、所詮「闇の現」……二度と逢えないという現実を見せつけられるだけでしたので。
(むば玉の闇の現は定かなる夢にいくらもまさらざりけり)
程なく若宮のおられるお屋敷に着きました。牛車を門に引き入れるなり、何とはなしに寂れた気配がいたします。それまでは未亡人ながら、娘一人を入内させるだけの品格を持つ家として手を入れ見目良く整えて暮らしておられましたのに、闇に暮れて沈み臥せっておられたのでしょう。草も丈高く生い茂り、野分のせいで一層荒れた感じがいたしました。ただ月影だけが八重葎にも遮られずさやかに差し込んでおります。屋敷の南面に牛車の轅を下しましたが、すぐには物も言えないご様子の母君でした。
「情けないことに未だこうしてこの世に留まっております。このような草深い宿の露を分け入ってお訪ねくださり、お恥ずかしくも申し訳なく……」
と、堪えきれない涙を零されます。
「この前お訪ねした典侍が『ひとしおお気の毒で心も魂も消え入るようでした』と奏上いたしておりました。わたくしのような物分かりの悪い者でも、まことに忍びないこととお察しいたします」
と申し上げて、すこし間をおいてから帝のお言葉を申し伝えました。
「『しばしの間は夢かとばかり思い辿らずにはいられなかったが、少しずつ心が鎮まるにつれて、夢ではない、覚めるはずもないのだと、なお堪えがたい心地でいる。どうすればよいのか相談する人もいない。何とか人目につかないよう参内させられないだろうか。若宮が大層気がかりだ。悲しみの渦中で過ごされているであろうことも心苦しく思っている。今すぐにでも……』など、最後まで仰ることが出来ない程涙にむせぶ一方で、周囲に心弱く見られないよう懸命に気を張っていらっしゃるご様子がいたわしく、みなまで承らないまま退出してまいりました次第です」
「目もよく見えませんが、このような勿体なきお言葉を光といたします」
 母君は仰って、差し出したお手紙を受け取り中身をご覧になりました。
「時が経てば少しは気も紛れる日も来るだろうと心待ちに過したが、ますます堪えられなくなりどうしようもない。幼き人を案じているが、やはり身近で育てていないと心許ない。今は若宮を亡き人の形見となぞらえて、将来をお考えくださいますよう。
『宮中の野に露を吹き結ぶ風の音に
 小萩の身が無事でいるか心配になる』」
 母君は涙に曇り最後まで読み切れないご様子でした。
「長生きがこんなに辛いものかと思い知らされ、高砂の松がどう思うかさえも恥ずかしく存じますのに……。
(いかでなほありと知らせじ高砂の松の思はむことも恥づかし)
内裏に出入りさせていただくなど、ましてご遠慮申し上げたい気持ちです。勿体ないお言葉をたびたび承りながら、わたくし自身はとても思い立つことができません。若宮がどこまでわかっていらっしゃるのか、今のお気持ちがどうなのかということより、ただ参内ばかり急いておられるようで……最もなこととはいえ、悲しく拝見いたしました。仰っておられることは全て存じ上げております由、内々にでもお伝えください。夫も娘も失った不吉な身ですから、いつまでも若宮を此方に留めておきますのも慎むべきことで、畏れ多いことでもございます」 
 若宮は既におやすみになっていらっしゃいました。わたくしは
「本当なら若宮に直接お会いした上で詳しくご様子もお伝えしたいのですが、帝がお待ちになられているでしょうし、夜も更けてしまいますので」
とお返事を促しました。
「子を思う心の闇の堪えがたい一部だけでも思うさま申し上げたいので、お遣いとしてではなく個人的にでも、どうか気楽にお出かけくださいませね……数年来、おめでたく晴れがましい時にお立ち寄りくださいましたのに、このようなお悔やみのお遣いとしてお目にかかるとは、返す返すも無情な運命でございます。
 生まれた時から将来が楽しみな娘でございました。亡き夫の大納言も今わの際まで
『とにかく娘の宮仕えの宿願を必ず遂げてくれ。自分が亡くなったからといって落胆して挫けるような事はならぬ』
と、繰り返し戒めて逝きました……これといった後見人の無い宮仕えはむしろしない方がいいとわかっておりながらも、ただ夫の遺言を違えないようにとばかり思い詰めて出仕させた次第です。その娘への、身に余る程の帝のお心ざし、ただただ畏れ多いことでございました。人並に扱われない恥辱を隠しながら宮仕えを続けておりましたものの、ふかく積もった人の妬み嫉み、安からぬことばかりが多く身に纏わりついて、遂には横死のような有様ではかなくなってしまいました。今思えば、それ程の深いお心ざしはかえって辛いことでございました……これも割り切れない親心の闇でございますが……」
 母君は最後まで仰り切れず、涙に咽んでいるうちに夜も更けてしまいました。
「帝も同じお気持ちでございます。
『自分の心ながら、あれほど強引に、他人が目を見張るほど愛したのも、長く続きそうにはなかったからかと、今となっては辛い宿縁であった。決して人の心を傷つけるようなことはしていないと思うのに、ただこの人との縁が原因で多くの恨みをかった挙句、このように先立たれ、心を鎮める術もなく、ますます頑なな愚か者になってしまった。前世で何があってこうなったのか知りたい』
と繰り返し仰せられ沈みがちにしておられます」
 話はいつまでも尽きることがありませんでしたが、お遣いの役割を果たさねばなりません。涙ながらに、
「今宵のうちにお返事をご報告しなくては」
 話を切り上げ、急ぎ帰り支度をはじめました。
 月は入り方で、空はすっきりと澄みわたっておりました。風がとても涼しくなり草むらの虫の声も涙を誘います。まことに立ち去りがたい庭の風情でございました。
「鈴虫が声の限りを尽くしても
 長い秋の夜は明けず尽きることなく涙は流れる」
 車に乗りかねて佇むわたくしに、
「ただでさえ虫の音がはげしい荒れ宿に
 さらに露を置く内裏からのお遣い人よ
 泣き暮らす私どもになお新たな涙をもたらされ、恨み言もつい申し上げてしまいそうです」
 母君が返されました。はなやかな贈り物などする折でもないので、ただ亡き御息所の形見……このような入用もあろうかと残しておいた装束一式、御髪上げの調度品などを添えて持たせてくださいました。
 お付きの若い女房たちも未だ悲しみのさなかにおりましたが、朝夕の内裏通いは慣れていますし、母君のご判断にいささか物足りなさを感じていたようでした。帝のご様子などをお耳に入れながら、早く参内なさった方がと勧めても、
「夫も娘もいない自分が若宮に付き添って参内申し上げるのも、世間体の良いはずがないし、長くお目にかからなかった不義理も後ろめたいこと……」
などとお考えのようで、すぐにでも駆けつけるという訳にもいきませんでした。

参考HP「源氏物語の世界
「窯変 源氏物語」橋本治
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