おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

四月に読んだ本

2017年4月19日  2023年9月13日 
なぜか画像が貼りつけられないので、このまま更新。

「最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常」二宮敦人

藝大生を妻に持つ作家・二宮氏の実録ルポエッセイ。
私は「アーティスト」という言葉の意味を激しく勘違いしていた。アーティスト、とは、アート「で」生きていく人ではなく、アート「と」生きていく人のことなのだ。これまでの人生、真のアーティストの方々に対しては非常に失礼な見方をしていたように思う。ごめんなさい。
アートは本来、対価を要求するものではない。ただ作りたいから、書(描)きたいから、弾きたいから、とにかく自らの内から湧き上がる何かを表現することそのものなんである(対価を受け取ったからそれはアートではない、なんてことはもちろんないが)。ラスコーの洞窟絵の時代は今よりもっと生きるか死ぬかのシビアな世界だったろうに、それであのレベルの絵を描いていたわけだから、「アート」は人間の知能がある程度のレベルを超えたあたりから続く、もはや本能といってもいいくらいの行動なのだろうと思う。実際に、常識を超えた発想というのは技術の発展のきっかけとなるから、直近の生活に役立たない(様に見える)というだけで、全体が進化するためのひとつの手段という見方もできる。
「職人」と言われる人々が、どう考えても割に合わない時間と手間をかけてものを作るのは、お金より何よりまず、そういった「本能」=「将来を見据えた大局観」に突き動かされてのことだと考えるとわかりやすい。そこに普通の金勘定の考え方を持ってきても、合うわけないのだ。
とはいえ「アート」に没頭できるのも、普通の経済活動あってのことでもある。両方に利のあるようにうまくかみ合って回るといいのだが…今は、中間に立つ者が利を根こそぎかっぱいでいく構図が目に余る。利は必要だが取りすぎたら災いになる、結局程ほどが幸せなのだ。というのを実現していくにはどうしたらいいんだろうか? 永遠の課題。

「くじ」シャーリイ・ジャクスン

スティーヴンキングが敬愛してやまない作家、ジャクスンの短編集。このところジャクスンの本が相次いで復刊されていて嬉しい限り。しかもこの「くじ」はキング作品の翻訳でおなじみの深町眞理子さんの処女訳作品であるという。好きな訳者さんなのでなお嬉しい。
ジャクスンの本を初めて読んだのは小学校低学年の頃。兄の買った「なぞの幽霊屋敷」というタイトル(こちらのほうが一番原題に合っている気がする、今となれば)の本、生頼範義さんのおどろおどろしい挿絵とあいまって、強烈な印象を残した。同じシリーズで同時期に買っていた「吸血鬼ドラキュラ」とはまったくちがう、あの不条理感というか、何もかも歪んでいてうまく嵌らない頼りなさ、不安定な感じに惹きつけられ、何回も読み返したものだった。高校に入ってまもなくスティーヴンキングを知り、どっぷりハマっていったのも必然。キングの初期作品、特に短編はジャクスンぽいものが多々あって、次第にわかりやすいホラーになり、最近になってまたその世界観に戻ってきたような感がある。
まごうかたなき大人と呼ばれる年齢になってこの短編集を読んでみると、何も奇抜な表現や言葉を使っているわけではないし、非常に短いものが多いのに(短いからか?)、自然にその世界に引っ張り込まれる。このさりげなさは意識してそうしているんだろうけど、本当にうまい。表現を吟味しつくして日本語の文章を作っていく翻訳という作業とも親和性が高く、翻訳する価値のある作品だと思う。新たに出た二冊も購入済みなので今から楽しみ。新訳で出ている「丘の家」も買おうかどうしようか。

「桶川ストーカー殺人 遺言」清水 潔

元・写真週刊誌FOCUS記者、現TV記者による「桶川ストーカー殺人事件」の記録。
この事件についてはよく覚えている。最初は通り魔かと思われたのが、実は元交際相手の差し金で全くの他人に殺された、ということも、しばらくの間被害者がやたら叩かれていたことも、その後張本人が北海道で自殺したということも、警察が酷かった、ということも、その都度新聞や雑誌の報道などで大まかにではあるが記憶に残っていた。
地道だが果敢な調査報道によりいち早く事件の真相に迫り、真犯人を追いつめていったジャーナリスト魂には本当に感心させられる。とても優秀で、男気のある人なのだろう。それはこの前読んだ著書「文庫X:殺人犯はそこにいる」からもうかがえる。
だが、この二件に共通していえるのが、この気鋭のジャーナリストを以てしても容易に触れられない闇があるということだ。「ルパン」を、「和人」を逮捕されないように仕向けたのは誰なのだろう? 事なかれ主義や怠慢が重い結果を招くことは多々あるが、意図的な「不手際」だったとしたらさらに怖い。
何が敵に回るかわからない。手持ちカードは多いのに越したことはないのだ。自衛のためにはまず記録。映像、音声、文章に残すこと。バックアップを取り、家族をはじめ信頼できる人の間で情報を共有すること。被害者が反撃をすると、その手段が暴言・暴力ではなく正当な手続きを踏んだものであっても「そこまでやらなくても」「大げさ」などと無責任な批判をしてくる輩は必ず沸いて出るので、常に複数で事に当たることが大事。
それにしても、被害者遺族が起こした国家賠償請求訴訟の判決「警察の捜査怠慢については賠償責任が認められたが、遺族が求めた捜査怠慢と殺害の関連認定については退けた」って…それはつまり裏を返せば、捜査をきちんとしてもしなくてもどのみち殺されてたってことで…それだけヤバイ相手だということで、そういうのに目をつけられたら警察も役に立たないんだから頼るなって裁判所が認めちゃったってことで… そんなんでいいの? これ何が悪いのだろう。法律の不備?
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