若紫 九
朱雀院の行幸(神社仏閣、名刹などに帝が外出すること)という一大イベントが予定されているため、舞人、高貴な家の子弟、上達部、殿上人など、およそ芸ごとに秀でているものは皆召集がかかり、親王や大臣を中心に、それぞれ練習に余念がない。
そんな忙しい日々の合間、そういえば北山の尼君はどうしているのか、えらくご無沙汰してしまったなと思い出したヒカル。
問い合わせてみたところ、僧都から返事が来た。
「先月の二十日ほどに、ついにみまかられまして……世の常とはいえ悲しいことでございます」
などとある。ヒカルは世の儚さをしみじみ感じつつ、
「尼君が心配していたあの若紫ちゃんはどうしているだろうか。幼な心にも恋しがっていることだろうな。私も、母の御息所に先立たれたときには…」
と、ほとんど忘れていた自分の幼き頃のことも思い出し、丁重にお悔やみを申し上げた。乳母の少納言が如才なく返事をかえしてきた。
喪が明けて一行が京に戻ったと聞き、折を見て、ある夜ヒカルみずから訪れた。主を失った邸はいっそう寂れて、小さい子にはさぞ恐ろしかろうと思われた。
いつもの南廂の間に落ち着くと、少納言が尼君のご臨終の様子などを涙ながらに語る。他人事ながら、ヒカルの袖も涙に濡れるのだった。
「父親である兵部卿宮さまにすぐ引き取っていただこうとしましたが、亡くなった尼君が
『亡き娘は、宮の北の方のことを情のない、意地悪な人と言っていました。もう幼児ともいえず、かといってまだ大人の顔色をよむ分別はない、中途半端なお歳の姫ですから、大勢いらっしゃる中で侮られ軽んじられて過ごされようかと思うと、躊躇ってしまいます』
などと始終ご心配なされていて……。
王子様の、姫君への勿体無いようなお言葉、どのくらい先々のことまで考えてらっしゃるのか存じませぬが、こんな時ですから素直に嬉しく受けとめるべきか、とも考えております。
ですが肝心の姫君は……ふさわしいお年ごろでは全くない上、年のわりに幼くていらして、もう本当にヒカル様のお相手としてはとてもとても、お話にならないのです」
「うーん、何度同じことを申し上げたらわかってくださるのかなあ? そういう幼くあどけないご様子こそが、かわいらしく愛しく思えるという、本当に格別のご縁と私は考えているのです。こうなったらやはり、人づてではなく、直接お話しさせてくださいよ。
年若い姫にお目にかかるのは難しいのでしょうが
和歌の浦の波のようにただ立ち帰ることはいたしませんよ
さすがに失礼でしょう?」
と、詰め寄るヒカル。
少納言は内心、
「確かに、尼君は亡くなってしまったのだし、私自身はヒカル王子に逆らえるほどの身分でもない……いや、だけど、だけど!」
テンパリながらも
「和歌の浦に寄せる波の真の心も知らないまま
浮かうかと身を任せる玉藻になるのはどうなのかしら
はいそうですかではよろしくー、とはいきませんよさすがに」
となかなか絶妙な返答をしたので、ヒカルはおおおーと感心し、ちょっと詰めよりすぎたかな? とすこし差し控える気にもなる。「どうやって波を越えて会いましょうか」と軽く口ずさむのを、若い女房たちは自分に言われたようにぞくぞくっと震える。
姫君は亡き祖母を恋しがって泣き伏していたが、遊び相手たちが
「お直衣を着ている方がいらしてますよ。父宮さまがおいでなのでは」
というので飛び起きて、
「少納言のおば様! 直衣を着ているという方はどこにいらっしゃるです? お父様ですの?」
とたたた、と近づいてくる足音、声がたまらなく可愛らしい。
「父宮さまではありませんが、まったく見知らぬ方というわけではありませんよ。こちらへ」
えっちがうの?! 誰? もしかして…あのときの、あのカッコイイ王子様?!
少女はさすがにあ、私まずいこと言っちゃった?! と察して、
「向こうに行きたいですー。眠いですー……」
と乳母の少納言にべったりとくっついて離れない。
「まあ姫君、今更どうして隠れようとなさいますの? 眠いのなら、私の膝の上でお休みなさいませ。さあ、もうすこし寄って……ね、王子。これですから。まだまだ赤ちゃんのようなお年ごろなのですよ」
と言って、半ばやけくそで姫君を押しやったところ、ヒカル、御簾の隙間から手を差し入れて探る。
柔らかな衣の上に、髪がつやつやとかかって、末のほうまでサラッサラだ。
うっわー超可愛い。萌えるわー。
と調子に乗って姫君の手をとらえると、
何なの? 不審者?! と怯えて
「もう寝るっていってるでしょ!」
と必死に振り払い、奥に引っ込もうとする。ヒカルはそのタイミングを逃さない。スルッと簾の内に滑り入ってしまった。
「今は、私が世話をする人ですよ。そんなに嫌わないで」
乳母は驚き呆れ、
「ダ、ダメですよ王子、出てください! あまりといえばあまりですわ。いくらなんでも、姫はまだ女とはいえないお歳ですのよ!」
と叫ぶ。
「まあまあ、さすがにこんな幼い子に何もしやしないよ。ただ、他の人とは違う私の心ざしの深さをしっかり見届けてほしいのだ」
ヒカルは涼しい顔でそううそぶくのだった。
外は霰が降り荒れて、恐ろしげな夜である。
「この可愛い子が、どうしてこんな寂れた場所で、心細く過ごさねばならないのか」
と思うといじらしく、つい涙が出て、とても見捨ててはおけない! と変なスイッチが入ったヒカル。
「格子を下ろしなさい。天気も荒れて物騒な夜だから、私が夜明かしして御守りする。皆、もっと近くに寄って」
といって、馴れた様子で帳の内までズカズカ入っていく。
ちょ、誰が入っていいと?!女ばっかりの中に勝手に入ってきちゃってなんなのこの人!ありえないっ!!
と一同ドン引き。
乳母の少納言も同様だが、相手はヒカル王子。事を荒立てるわけにもいかず、嘆息しつつただ見守る。
姫君はひどく怯えて、一体自分はどうなっちゃうのかとぶるぶる震え、つやつやすべすべの若いお肌を粟立てている。ヒカルはそんな姿も可愛いと思い、小さな体を単衣だけで包み込む。
我ながらこれはちょっと何だかなー、
自覚しつつも、そこは女扱いにかけては百戦錬磨のヒカル、
「私と行きましょうよ、美しい絵がたくさんある、お人形遊びもできる所に」
と優しく声をかけ、姫君の気を引く。何しろ十八歳という若いイケメンだしいい匂いがするし、人を惹きつけずにおかない愛嬌もたっぷり。幼い姫君は、そんなに怖い人でもないのかも? とやや思い直すが、さすがに気を許して眠り込むというところまではいかない。ずいぶん長いこと、もじもじしながら横になっていた。
その夜は一晩中、風が吹き荒れていたので、女房たちは
「ほんとうに、王子がこうして宿直にいらっしゃらなかったら、どんなに心細かったでしょうか」
「同じことなら、お似合いの年回りでいらしたら…ねえ?」
とささやきあっている。乳母は心配でたまらないので、二人のすぐ側に控えて寝ずの番だ。
風がすこし吹きやんだ深夜、ヒカルは邸を出ることにしたが、傍から見れば恋人宅から帰るような風情である。
「今はますます愛しくてたまらない。もう片時の間も離れるのは心配だから、明け暮れ眺めていられる場所に迎えたい。こうして通うだけでは物足りないよ。姫君も怖がってはいなかったよね」
と調子こくヒカルを、少納言が静かにたしなめる。
「姫君の父宮さまも、引き取られるおつもりでいらっしゃいます。この四十九日がすぎるまではと思っておられるようです」
「兵部卿宮ならそれは確かな頼り先だろうけど、ずっと別々に暮らして来たんでしょ? 他人と同じようなものじゃないか。今夜初めてお会いした私のほうが心ざしは深いと思うよ!」
といって姫君をかき撫でかき撫でして、後ろ髪をひかれつつ出立した。
霧が深く立ち込めた空は常ならぬ雰囲気で、霜が白くおりている。本当の恋ならば情緒もある朝帰りであったろうに、何か物足りなく思える。
以前こっそりと通っていた処に近いと気付き、その門を叩かせたが、誰も出てこない。どうしようもないので、お伴の中で声の良い者に歌わせる。
「曙に霧が立ち込める空模様につけても
素通りしがたい貴方の家の門前です」
と二回ほど歌うと、物なれた感じの使用人が出てきて
「霧のたちこめた我が家の前を通り過ぎがたいと仰るなら
生い茂った草が門を閉ざしたことくらい何でもないでしょうに
今まで放っておかれた癖に調子良すぎですよ」
とよみかけ、家に入ってしまった。それきり誰も出て来ない。
このまま帰るのも虚しいが、明けゆく空の下うろうろするのはもっと体裁が悪いので、おとなしく邸に帰ることにした。
ヒカルは、あの可愛らしい少女の面影を恋しく思い出し、ひとり笑いをしながら寝た。
日が高くなってから起きだして、さて手紙を、と机に向かったが、いつもとは勝手が違うので、書いては置き書いては置きしつつ、気の向くままに書きすさび、美しい絵なども添えた。
<若紫 十につづく>
参考HP「源氏物語の世界」
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