夕顔 ~右近ひとり語り~ その七
十一
夕顔のお方さまを野辺にお送りしましたそのあと、わたくしは二条院に呼ばれ、光君のお側近くにお部屋をいただき、お仕えすることになりました。
慣れない屋敷で、悲しみに沈みがちのわたくしを、惟光さまも何くれとなく、面倒をみてくださいました。
わたくしはこの通り、さほど美しくもない普通の女でございますから、光の君のお屋敷に住み、時折お話し相手になることなど、夢にも思っておりませんでした。悲しみのあまり床についた光君は
「あの人とは、本当に不思議なほど短かった縁だった。私ももうこの世に生きていられないような気がするよ。右近、お前も長年の女主人を失って、さぞ心細いことだろう。私が長く生きていられれば、いろいろ面倒をみてやれるのだが、そうもいかないようだ。口惜しいことだよ」
などというような気弱いことを仰って、さめざめとお泣きになるのです。わたくしごときに、本当に勿体ないお言葉ではございました。
二条院のなかでは人々が右往左往しておりました。なにしろ内裏から、帝よりの御使いがひきもきらず訪れるのです。帝は大変心配されておりましたから、光の君もさすがにいつまでも寝込んだままでいるわけにも参りませんでした。
北の方のお家のほうでも懸命にお世話なさって、左大臣が毎日お越しになり、さまざまな加持祈祷をさせられました。その甲斐あってか、二十余日後、光の君はようやっとご回復なされたのでございます。
お方さまの死に触れたことで籠っていらした忌明けの日が、病明けの床上げの日と、奇しくも重なりましたことで、光君は久しぶりに参内なさることになりました。舅の左大臣さまは車もご用意され、御物忌みや何やかやと、慎みごとをうるさく申し上げたりして、細々とお世話を焼かれています。
光の君さまは言われるがまま、されるがままで、心ここにあらずといったご様子でいらっしゃいました。
九月も二十日を過ぎました。
光の君は、身体は回復されたものの沈みがちで、ふとした拍子に声をあげて泣かれたりして、お側づきのかたがたに
「物の怪でも憑いてらっしゃるのかしら」
と噂されるほどでした。
ですがその面やつれしたお顔は、より一層優美でいらしたとか。
あるのどかな夕暮れ、お召しがかかり、光君は言いにくそうに仰られました。
「今考えても解せないのは……なぜあそこまで、誰とも知られまいと懸命にお隠しになっていたのか、ということなんだよ。本当に卑しい身分であったとしても、私には関係なかったのに……右近、お前のお方さまはあまりに余所余所しい振る舞いだったと思わないか?」
「深く隠していたなどと……お方さまはただ、申し上げるほどの名前でもないと思っていらしただけでございます。
最初から、不思議な、思いもかけないご縁でありましたから
『とても現実のこととも思えない。あの方が名前をお隠しになるのは、真実かの光の君でいらっしゃるからでしょう。私となど所詮遊び、後腐れがないように黙っていらっしゃるのだわ』
などと仰っておりました。お辛い気持ちでいらしたのは、お方さまのほうですわ」
むっとして言い募るわたくしを宥めるように、光君はまた仰いました。
「詮ない意地の張り合いだっというわけだね。私はそんなに隠すつもりはなかったんだよ。ただ、こういうつきあい方に慣れていなかっただけなんだ。帝の目もあるし、慎むべき、憚るべきことが多い身だからね。何気なく誰かに冗談を言うだけでも、へんに大きく取りざたされてしまう。
あの、何ということもない夕暮れの出来事が、不思議な程心に残ってね。どうしてもこうしても、逢いに行かずにいられなかった。それもこれも、こんなことになる運命だったとは……本当に可哀想なことをした。
だが一方ではつらいのだよ。こんなに短いご縁だったのであれば、何故あれほどあの方が心に染みて、愛しく思われたのだろうか、と。
右近、もっと詳しく話を聞かせておくれ。いまさら何を隠すことがあろう。七日ごとに仏画を描かせて冥福を祈ろうにも、何も知らないままではどうしようもない」
「どうしてお隠しすることなどありましょう。夕顔のお方さまご自身が黙っていらしたことを、亡くなったからといってわたくしがうかうかと話していいのか、と控えておりましただけでございます」
そうしてわたくしは初めて、光の君にお方さまのご事情をお話ししたのでした。
十二
「親御さまたちは、早いうちにお亡くなりになりました。
三位の中将であらせられましたお父様は、お方さまのことを大層お可愛がりになっておりましたが、ご自分の出世の心もとなさをお嘆きのうちに、命さえ失ってしまわれて……。その後ふとしたご縁で、頭の中将さま、その頃はまだ少将でいらっしゃいましたが、お方さまを見初められ、三年ほど熱心に通われておりました。
ところが去年の秋の頃、中将さまの北の方、右大臣さまのお宅より、大変恐ろしいことを言って寄越したのです。
ただでさえ怖がりのお方さまでいらっしゃいましたから、どうすることも出来ずに怖気づいてしまわれて、西の京にある乳母の家にこっそりと隠れ住むことになりました。家は狭く、むさ苦しい所でしたから、とても長くは住めるものではない、そのうち山里に移ろうかとも考えておいででした。
ですがあいにく今年は方塞がりに当たっていて、仕方なくあの下た家に方違えに参っておりましたところを、光君に見つけられたのです。お方さまはそのことをとても嘆いておいででした。
お方さまは世間の人とは違い、とかく控えめな方で、他の人に思い悩んでいる姿は見られたくなかったようです。光君にお逢いするときは何気ないふうを装っていらっしゃいましたが……」
「そうだったのか……」
光の君はため息をつかれ、しばし亡き人に思いを馳せられておいでのようでした。
「そういえば、行方が知れない幼な子がいる、と頭の中将から聞いたことがある。もしや」
「はい、おととしの春にお生まれになりました。とても可愛らしいお嬢さまでございます」
光君は身を乗り出して仰いました。
「今その子は何処に? 誰にも知らせないで、私に預からせてもらえないか。これほどあっけなく逝ってしまった人の形見として、こんなに嬉しいことがあるだろうか。
頭の中将にも伝えるべきだろうが、言っても始まらない恨み言をいわれるだろうし、大体右大臣家が黙っていないだろうからね。私が引き取って育てるなら、何も問題はない。
その乳母とやらを何とかとりなして、子どもを連れて来てもらえないか?」
光の君の熱意は本物のように感じられ、わたくしもいささか興奮いたしました。
「そうしていただけるのならば、こんなに嬉しいことはありません。あの西の京のような所で育つのも、不憫なことでございますし。他に頼りになる人もおりませんから、光の君が後見人になっていただけるのなら願ったりかなったりでございます」
夕暮れの静けさのなか、空はしみじみと美しく、庭先の前栽は枯れはてて、虫の音も弱くひそやかに、だんだんと色づく紅葉。
まるで絵に描いたような趣深い景色を見渡して、なんとわたくしは果報者か、このような素晴らしい宮仕えなど思いもよらなかった、以前夕顔のお方さまとともに住まった場所は、今思い出しても恥ずかしいくらい酷い有様だったとため息をつきました。
竹藪の中で、家鳩という鳥が太い声で鳴くのを聞いて、あの院でお方さまが同じ声にひどく怖がっていらしたのを思い出しました。
光の君も同じお気持ちだったようで、またわたくしに話しかけられました。
「年はいくつだったんだい? 不思議な程世間ずれしてなくて、か弱く見えたのも、こんなに短い命だったせいなのだろうか」
「十九におなりでした。右近めの母は、お方さまの乳母でもあったのですが、その母が早くに亡くなりましたため、三位の君が不憫がって、お側離れず一緒に育ててくださいました。そのご恩を考えると、どうしてわたくしのような者が生き延びているのかと……家族同然に慣れ親しんだお方でしたから、本当に悔しうございます。
はかなく弱々しいお方さまがわたくしめを必要としてくださる、そのお気持ちだけ頼りに、長年お仕えしてきたのでございます」
「頼りなげな女性、というのが可愛らしくてよいのだ。小賢しく他人に靡かないような人はちょっと、ね。私自身、てきぱきとした性質じゃないもんだから、女性はただ柔らかに優しく、うっかりすると誰かに騙されてしまいそうな感じがいいね。でしゃばったりせず控えめで、それでもこれという男の心には従うというのがたまらなく愛しい。私の思うがままに育てて暮らしたら、どんなに慕わしく離れがたい女になるだろう」
「まさに、光君の望むとおりのお方さまでございました。ですがそう思うと余計に口惜しうございます」
言い終わらぬうちに涙が溢れ出しました。
空はすこし曇って、風が冷たくなってきました。しばらく二人無言のまま眺めておりました。
「恋した人の亡骸を焼く煙を
あの雲かこの雲かと思って眺めると
この夕暮れの空も
親しいもののような気がしてくる」
独り言のように呟かれた光君に、泣き続けるわたくしは答えることはできませんでした。
わたくしの代わりにお方さまが此処にいられたらどんなにか……
そう思うにつけましても、胸は悲しみに塞がるのでした。あの耳障りな砧の音さえも恋しく思えるほどに。
光の君は静かに「八月九日正に長き夜」とお口ずさみになって、お休みになられました。
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参考HP「源氏物語の世界」
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