夕顔 ~右近ひとり語り~ その六
九
やっとのことで、惟光朝臣さまがご到着なさいました。
夜中といわず早朝といわず、常に光の君のみ心のままつき従っておりました方が、今宵に限ってお側にいらっしゃらなかった上に、なかなか捕まらなかったものですから、光君は随分と恨んでらしゃいました。
ですが実際に惟光さまを目の前にしますと、あまりにあっというまの出来事をどうお話してよいやらわからなくなったようで、一言も言葉が出なくなってしまわれました。
わたくしは惟光さまがいらしたことで、これまでのすべてが一遍に思い出され、さらなる涙にくれておりました。
光の君も、一人で気丈夫にしておられた緊張が解けたのでしょうか、いちどきに襲ってきました悲しみを堪え切れず、しばらくの間涙をとめどもなく流していらっしゃいました。
光君はようよう気持ちを落ち着かせると仰いました。
「本当に奇怪な出来事だった。私がどれだけ驚いたか……とても言葉では言い尽くせないよ。
とりあえず読経をするべきだろうと、お前の兄の阿闍梨を呼ぶように命じておいたはずなのだが、どうした?」
「すみません、ゆうべ山に帰ってしまいましたんです。坊さんも偉くなると弟子たちの手前、あまり出歩いてばかりもいられないようで。しかし不思議な話ですなあ。夕顔のお方さまは、生前からどこかお悪いところでも?」
「そんなこと……全然……元気だったんだ、ついさっきまで」
光君はまた泣き出してしまわれました。
お嘆きになる様は大層いたわしく、悲痛で、しかも優美でございました。さすがの惟光さまもつい、もらい泣きをしてしまうほどに。
二人とも年若いお方、これから一体どうすればよいのか、瞬時に判断がつくほど練れているわけではございません。他に頼れる年配者もおりません。わたくしはすこし心配になりましたが、そこはあたまの回転の速い惟光さま、こう提案なさいました。
「そうだ、この院の管理人には、誰にも言わないよう命令しておいたほうがよろしいですよ。管理人自身は口が固くても、その身内が誰かに喋ってしまうこともありますからな、とにかく暗いうちに、早くここから出ないと。誰かに見られたらことです」
「それはもっともだが、ここよりひと気のないところなんて他にあるか?」
「そうですねえ……あの五条の辺りは人通りも多いし狭いですからね、女の人たちが泣き騒いだら近所連中に筒抜け、すぐ噂になりますからなあ。そうだ、山奥の寺に行けば、こんなことしょっちゅうですから、目立たないんじゃないでしょうか。えーッと……」
惟光さまはちょっと考えて、また仰いました。
「そうそう、昔親しくしていた女がおりまして、それが東山辺りで尼になってるんです。あそこなら大丈夫でしょう。いや色っぽい話ではないですよ、私の父朝臣の乳母だった婆さまの隠居先です。あの辺りなら、人はまあおりますけど、ここらや五条よりもひと目につきません」
話が決まると、惟光さまは夜明け前の慌しさに紛れ、素早く車を寄せてらっしゃいました。
夕顔のお方さまの亡骸を、光の君はとてもお抱きになることができず、惟光さまが上筵にくるんで車に乗せられました。
小柄なお体はただただお可愛らしうございました。きっちりと包むことはできなかったため、筵の隙間から髪がこぼれ落ちてきますのがいたましく、光君も、せめて最期を見届けたい、と涙ながらに呟かれました。が、
「いけません、早く馬に乗って二条院にお帰り下さい。もたもたしていたらそれこそ誰かに見られてしまいますよ!」
惟光さまがきっぱりと撥ねつけられました。
わたくしはお方さまとともに車に乗りましたが、馬を光君に譲られた惟光さまは裾を括りあげて徒歩で行かれます。とても奇妙で、変わった野辺送りでございましたが、光の君の深い悲しみを間近で拝見したわたくしたちには、体裁の悪さなど何ほどのこともありませんでした。むしろ、帰らねばならない光君はどれほどの思いをなさっていたか……身を切られるようなお気持ちだったのに違いありません。
十
お方さまが生き返られることは遂にありませんでした。わたくしは身も世もなく泣き続け、自分でも何をしようとしているのかわからないままふらふら外に出て、あわや谷底にというところを惟光さまのご家来に助けられました。
五条の家に住む、お方さまのお身内にお知らせしなければ、と気ばかり焦りますが、どうにもなりません。無闇に知らせて騒ぎにでもなりましたら、光の君にも大層なご迷惑がかかります。惟光さまはそれを一番恐れておいででした。
すべてのごたごたを一手に引き受け、世間だけでなくご自分のお身内にさえもいっさい秘密のまま、始末をつけようと思っていらしたのです。
ですから、その日の夕暮れ、惟光さまが光君の元にお出かけになられたとき、まさか君がお葬式にいらっしゃるとは夢にも思っておりませんでした。とんでもない、と最初は反対された惟光さまも、光の君のお方さまへの深い思いを前に、折れざるを得なかったのでございます。
空には十七日の月が差し昇っておりました。
屏風のかげで臥せっている私の隣に、質素な狩衣姿の光君がそっと入っていらして、お方さまの手をお取りになりました。
まるで眠っているかのような可愛らしいご様子に
「今いちどお声をお聞かせください。如何な前世の因縁か、僅かの間にあれ程心を尽くし愛した私を、うち捨てて逝ってしまわれるなんて。私は一体どうしたらいいんだろう、どうしたら」
光の君は辺りも憚らず泣き続けられました。
周りで読経するお坊様たちも、どなたとは知らないものの、訳ありとみて、そっと涙を拭っていらしたようです。
光の君は、わたくしに「二条院へおいで」と誘ってくださいました。
勿体ないお心づかいにわたくしは胸が一杯になり
「夕顔のお方さまとわたくしは、何年もの間……ほんの幼い頃から片時も離れたことがないほど慣れ親しんだ間柄でございます。こんなに急にお別れ申し上げて、わたくし一人で一体どこへ帰ればよいのか……お方さまがこうなったことを皆にどう話せばよいのでしょうか。
わたくしの悲しみはさておき、周りの人にとやかく言われましょうことがまた辛うございます。とても顔向けが出来ません。
わたくしも煙と一緒に、お方さまのところへ参りとうございます」
と泣き崩れてしまいました。
「それは私も同じだ。悲しくない別れなどない、世の中はそういうものだ。だが先立つほうも残されるほうも、同じ限りある命なのだよ。気を取り直して、私を頼りなさい」
光の君の優しい言葉にわたくしは、ますます涙が止まりません。君も泣きながら
「と言う私こそ、生きていられないような気持ちだよ」
などと仰います。
思い出すのも苦しいほどに、悲しく辛い夜でございました。
どのくらい時間が経ったのでしょう。
いつの間にか惟光さまがいらして
「ああ、ああ、もうすぐ朝ですよ。本当に早くお帰りになってくださらないと。いい加減しゃんとしてくださいよ」
と促されました。
光の君は何度も振り返り振り返り、後ろ髪を引かれる様子で出立なされました。
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参考HP「源氏物語の世界」
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