夕顔 ~右近ひとり語り~ その一
あの日も……同じように月の輝く宵でございました。
この婆めが右近と呼ばれておりました、もう遠い遠い昔のことでございます。
あの頃のわたくし……
思いもかけぬ出来事に出遭い、ただただ胸がつぶれそうなほどに悲しく辛く、生きながらえてまたこのような場に出ることなど想像もつかないほど、酷い有様でございました。
時の流れとは無常なものでございます。
思い出すのも苦しかった日々も、矢のように過ぎてゆきました。今はこうして語ることが、懐かしく慕わしいお方さまの一番のご供養になるものと信じ、残りの命を奮い立たせております。
はて、どこから話せば?
わたくしにお任せいただけるのなら、そうですね……はじめに、やはりあの……六条の御方さまについて、語らせていただきとうございます。
一
秋のことでございました。
かの光の君は、特に誰のせいということもなく、ひとり物思いにふけりがちな日々を送られていらっしゃいました。北の方のお宅に通うのもついついと間遠になり、向こう方には随分と恨まれていらっしゃいましたとか。
例の六条の御方さまにいたしましても、高嶺の花がこちらに靡いたとみるや、手のひらを返したように、通り一遍のお相手と同じように扱われ、お気の毒なことになっていたようです。手に入れるまではひどく情熱的でいらした光君が、もはやそのような振る舞いをみせることはない……どういうことかしら、やはり醒めてしまった……と申し上げるしかないのでしょう。
六条の御方さまは、極端に物事を突き詰めて考えがちなむつかしいお人で、君より年上であることをずっと気に病んでおられました。ましてその訪れが目に見えて減ってきた折には、それみたことかという人の噂にも怯え、今日は明日はと待つしかないうち、心も千々に乱れておいででした。
霧が深くたちこめた朝、無理にうながされ、眠そうなご様子でため息まじりに出立なさる光の君。
中将のおもとと申します女房が御格子を一間上げて、お見送り申し上げようと御几帳を引き開けたので、六条の御方さまも頭を少し上げてご覧になっておられます。
色あざやかな前栽の花々に心惹かれて、立ち去りがたいご様子でいらっしゃる光君のお姿は、比類ないうつくしさでございました。
お伴にと、中将の君が渡り廊下に出て参りました。薄絹の裳はこの季節に似つかわしい紫苑色、あざやかに引き結んだその腰つきは、まことにたおやかで優美でございました。
光君はふと振り返り、中からは見えない隅の方の高欄に、中将の君をしばしの間座らせました。その凛とした節度のある態度といい、髪のかかり具合といい、見事なものと感じいってご覧になっていた光君、
「咲く花に心を移したと噂されるのは慎みたいものだが
手折らないで見過ごすにも惜しい今朝の朝顔だ
さあ、どうしようか?」
仰られながら、いつもの悪い癖でございますね、中将の君の手をお取りになります。
中将の君も慣れたもので、素早くこう返されました。
「朝霧の晴れ間も待たずにお帰りになられるようですから
花に心を止められる暇などありませんわ」
さすがは当代一の才色兼備とうたわれる方の女房、非の打ち所のないかわし方でいらっしゃいましたこと。
可愛らしい男の子が、裾を露に濡らしながら花の中に入り、朝顔を手折って王子にお渡ししているその様子は、まさに一幅の絵でございました。
光の君は、まことに素晴らしい男君でございました。
通りがかりに垣間見ただけの人でも、心惹かれずにはいられませんでした。美しい花の陰では、無骨な田舎者でさえ胸が高鳴るものですが、いちどでも王子の魅力に触れた人は、その身分に関わりなく、是非わが自慢の娘をお側仕えにと願い、そこそこに優秀な姉や妹ならば、下働きでもいいからこの方に仕えさせたい、と思ったものでした。
ましてや、ごく身近にお姿を拝見し、何かのついでにもお言葉をかけられるような立場におります、ものをわきまえた人たちならば、思いは格別でありましょう。
六条の立派なお屋敷で、それでも朝から晩までくつろいで過すということのない光君、北の方がいらっしゃる身では致し方ないことではございますが、わが女主人こそ第一と思し召す女房たちは、物足りなくも心もとなく、恨めしく思っていましたとか。
>>>その二へ
参考HP「源氏物語の世界」
コメント
コメントを投稿