2015年12月12日土曜日

12月に読んだ本

「ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 影の支配者たちがアジアを狙う」
宋 鴻兵

考えてみれば、現代の通貨のしくみって不思議だ。
物々交換や金貨銀貨の取引とちがって、今のお金は単なる約束事であり、それ自体に額面通りの価値があるわけではない。さらに現金さえも持ち歩くことは減り、支払は電子マネーやカード、働いて貯めたお金は通帳に記載された数字。そのデータを守るために、高いお金をかけて高性能なコンピュータを導入、システムを構築し、24時間毎日保守運用。何だかなあという感じだが、この仕組があることで物事が動き、自分の力だけでは到底作れないものやできないことがお金で入手できるのだから、共通の概念というものは一旦広めることに成功すれば、こんなにもすごい力を得られるのだと感心してしまう。

米国政府には通貨発行権がない。
一見公共機関かのように見える金融機関は、実質ただの民間企業。昔からの一部の大金持ちの一族が米国政府および国の生殺与奪の実権を握っている。

という、ちょっと聞くと陰謀論めいた話を、歴史的経緯や実際の事件、公式の記録や数値のデータなどを基に、論理的に実証していく。金という有限の資源を基準とする実体経済から、市場の操作により(持つ者の思うがままに)いくらでも利を生む仕組みに変えられていく経緯など、金融全般の勉強にもなる上、なまじっかなミステリーより格段に面白い。本当にこの通りのことが行われていたとすれば、現在起こっている様々な事象も、すべて誰かの意図によって誘導されているのでは…などと思えてくる。
「国も人種も、世界平和も何も関係ない、ただひとつ金儲けをするという目的のために、少数のとんでもなく知能指数の高い一団が知恵を結集し、取れそうなところからよってたかってむしりとる」
という図式を当てはめれば、大体のことは説明がついてしまうような気がしてくるのだ。

ただ読み終わってみて思った。そうまでして儲けた有り余るほどの金を、この人達は何に使っているのだろう?
人間には所詮肉体という限界がある。たくさんものがあっても、それを全部有益に使う「時間」は等しく限られている。人ひとり永く生きたところでせいぜい100年そこそこ。自分たちの一族存続のためにとはいっても、限界はある。確かにお金を持たないと守れないものはあるが、持っているが故に攻撃される可能性も高くなる。普通に衣食住揃ってたまに娯楽もできる、老後もよほどのことがないかぎり安心、というラインを超えると、むしろ持っていれば持っているほど新たな不安材料が増える。その不安を解消するために、さらなるマネーゲームに金をつぎこみ、政治にもバンバン口を出し、国内で満足のいく利益が出ないとみれば、外国でも同じことを試みる。

・・・と、こう書いてみるとこの人達って本当に働き者だ、ある意味病的なほど。

ただ、家を建てる者がいなければ、農業を営む者がいなければ、いくら金があっても勝手に家は建たないし食べ物もでてこない。いろいろと技術を持って働く民がいないことには、彼らの生活も成り立たないのだ。そこいらへんは「知能指数の高い彼ら」なら十分に理解しているはず。結局生身の人間である以上、ある程度助け合わないと生きていけないので、人より多く持っている者は、そのぶん責任も負うことになる。というか是非背負い込んでくださいなという感じである。

著者は中国の人で、今後中国が進むべき道として、金本位制に準じた実体経済の導入をうたっており、それがかつて金融界を牛耳ってきた面々への対抗策にもなると主張している。2009年に書かれた本であるが、六年後の今、どのように世界が変わってきたか?を考えると、まだまだ良い方に変わっていく道ではなく、長年のツケを否応なく払わされている途中、のような印象だ。下々の庶民が出来ることとして、今更だがやはり金融系の勉強もするとしよう。


「関東大震災 朝鮮人虐殺の真実」 工藤美代子

刊行が上の本と偶然同じ(!)2009年。ということは東日本大震災前。あの時のことを思い出してみると、少なくとも混乱に乗じた「テロ」は起こっていない。もちろんそのような想定はしていたろうし、未然に防いだ可能性もあるが、何しろ震災直後は電話もろくに通じなかったし、電車も止まった。ところどころ停電もあり、道路も寸断されたため車での移動も困難になり、さまざまな物流が大混乱。地震が起きることを前もって知っていて事前準備していないかぎり、あの状況で何かを綿密に計画し実行するのは難しかったと思う。無人となった被災地を荒らす窃盗や、避難所での事件など聞こえてきたのは、少し落ち着いて来た頃だ。デマも多かった。ツイッターでチェーンメールの如くデマRTが次々と流れてきた。デマと判明し随分たったあとでも、FBの記事でシェアされてきたりもした。

いっぽう関東大震災のころは抗日運動盛んな時代、日本でテロを計画していた社会主義者も少ない数ではなく、軍や警察が厳重に警戒するのは無理からぬことだったろう。治安も悪化し、一般人が自警団を組んで防衛に当たったのも至極当然の動きではあった。
「虐殺」といえるような事象が本当にあったかどうかは、この本を読んだだけで結論付けることはできないと思うし、しようとも思わない。ただ「事実と違うまたは誇張した」デマが回って、煽られて犠牲を出してしまったことは事実だろう。2011年の時もそうだったが、強いストレスを受け不安な日々を過ごす人には、真っ当な話よりも、よりネガティブ、よりセンセーショナルな情報のほうが耳に入りやすい。そして悪い話ほど広がるスピードが速く、一度信じこんでしまうと、後に訂正されても受け入れにくくなる。ネットがある現代でさえそうだったのだから、テレビもなくラジオはじめ報道機関がほぼすべて壊滅した状態ではなおさらだろう。

いかにも物議を醸しそうなタイトルではあるけれど、前半は当時の日本の国内外の状況がさまざまな資料を元に詳細に描かれていて、大変興味深いし勉強にもなる。ただ「虐殺があったかなかったか」ではなく「なぜ虐殺といわれるに至ったか」に絞って追求していったほうが、かえって真実に肉薄できたのではないか。本書は学術本ではないし、事実が後から誇張されたり上書きされたりする経緯もきちんと調べて書かれているので、あえて結論づける必要はなかったように思う。当時を語る本としてはかなり良質だと思うので、ちょっともったいない気がする。

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