2012年7月18日水曜日

山の寺

お父さんは?

幼稚園の友達にバイバイをした小さな手が、私の薬指と小指をぎゅっと掴む。私は前を向いたままつぶやくように答える。

まだよ。今日も、まだ。

娘の大きな目が一瞬さらに見開かれ、すぐに閉じた。道端に植えられたタチアオイの列に一羽のアゲハがまとわりついている。昼下がりの空は曇っていて、遠く雷鳴が聞こえる。ああ、急いで帰らなくては。今日はなぜ自転車で来なかったのだろう。

雨が降りそうだから、タクシーで行こうか。

娘の返事を待たず、近くに来たタクシーに手を挙げる。町はますます暗くなる。
白いカバーに包まれたタクシーの座席で、行き先を告げる。
運転手の顔はよく見えない。それほど年上にも見えないが、さして若くもなさそうだ。
駅を過ぎた。そろそろ家のある道に通じる交差点にさしかかるはず。
信号待ちで停まったタクシーの窓から、見慣れないものが目に留まった。

浅くぼけたような色の街並みの中に突然現れた、黒く大きな木造りの門。開かれた扉の向こうに白砂が広がる。眩しいほどに真っ白だ。奥にこれも古めかしい大きな建物が見える。参拝客らしき姿も多い。

こんな立派なお寺、前からあったかしら?全然気づかなかった。
ずっと昔、学生の頃住んでいたアパートの近所にあった、あのお寺に似ている。
今度、お父さんと来よう。

娘は黙って座っている。
タクシーは吸い込まれるように門を入る。

ちょっと。何で?…家にすぐ帰らなきゃいけないのに。

そう言おうとして口を噤んだ。何言ってるの?さっき私が自分で言ったじゃない、寄って下さいって。

運転手は建物の裏手にある大きな木の根元に車を停めると、外に出た私たちに顔を向け、ここで待ってますからねごゆっくりと言った。満面の笑顔だ。意外に若い、と思ったのも束の間、すぐに疲れた様子で座席をリクライニングさせ目を瞑ってしまった。

寺の裏手から表に出ると、門の外の風景が変わっていた。さっきまでの街並みは消え、一面、白い雪に覆われた田んぼが広がっていた。雪さえちらついている。

お母さん、雪。

娘が嬉しそうに指差し、あそこに行きたいなあと言う。

だめよ、このお寺をひと通り回ってしまわなきゃ。
でなきゃお父さんを案内できないでしょ。

そっかあ。

娘は素直に従って、踵をかえした。
それにしても変わった建物だ。出入口が見当たらない。いったい何処から入るのかしら。
行き交う人々にたずねようにも、みなひっきりなしに喋りつづけており、こちらに気がついてもいないようだ。
同じ日本語を話しているのに、意味がさっぱりわからない。

建物に入れないので、石畳の通路をウロウロ歩き回っているうちに、広い場所に出た。緑の草地の周りを木のクイで囲ってある。牧場のようだが、中には牛も馬も、何もいない。ふと顔を上げると、遠くに山並みが見える。普段、家からこのような風景はみたことがない。

いつのまにこんな山奥に来たのだろう?
駅からそれほど離れた場所ではなかったはず。あとすこしで家に帰る道、だったはず。

ここは何処なの?

誰かが答える声がした。◯◯県◯◯郡…

そんな馬鹿な。そんな遠いところに、いつのまに来たの?

娘の姿がない。

慌てて辺りを見回した。が、知らない顔ばかりだ。
娘の名を呼ぼうとして愕然とした。思い出せない。

走り出した。周りの景色はめまぐるしく変わっていく。周りは山、山、また山。合間を深く切り込んだ谷。水脈も見える。

娘の名前が思い出せない。なんてこと、自分の子の名前を忘れるなんて。
早く思い出して、家に帰らなくては。
薬指と小指を掴む、柔らかな感触だけが残っている。

早くおうちに帰りたい。早く、一刻も早く。

山は深く、家は遠い。一日では到底辿りつけないほどに、遠くに来てしまった。

焦るほどに足は進まない。柔らかく土にのめりこむ。アゲハがひらひらと目の前を舞った。
は や く

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