しゃぼんだまによせて 一


 まあまあ、ようこそいらっしゃいませ。どうぞ早くお入りになって。外はお寒かったでしょ。玄関も冷えますから、どうぞコートのままで上がっていらして。
 こちらにお掛けになって、暖炉に近いところに。いえいえ、私はずっと家におりましたから。此処が一番落ち着きますのよ。それにしても今の季節、春遠からじとは申せ、まだまだ寒の戻る日もありますこと。
 さて、どこからお話すればよろしいのかしら。父のことを聞いてくる方はときどきいらっしゃるけれど、そうね、学生さんとか、学校の先生がたが多いかしら。女性はあなたが初めて。こんなお婆ちゃんのつたないお話でよければ……まあありがとう、娘よりお若いかたとお話する機会はなかなかないから、私も嬉しいんですのよ、お邪魔だなんて、とんでもない。
 ええ、私の覚えている限りのお話はさせていただきます。ただ、父や母から随分色んなことを聴きましたけれど、それが全部本当のことかどうかは私にはわからないのよ。記憶違いということもございましょう、何しろ昔々のことですから。そこはご承知置き下さいましね。

 母の実家は士族の流れをくむ資産家でした。父の方も元は「御殿」と呼ばれた程の名家でしたから、政略結婚といえど家格からすれば釣り合いは取れていたと思います。ただ父の方は相当負い目はあったでしょうね。家業は傾き借金塗れ、没落寸前の家を守るための結婚でしたから。およそロマンティックとは程遠いどころか、嫁に貰ったというより婿にならせていただいたって気分だったでしょう。
 それと……そうね、父はちょっと、まあものを書く人は割にそういうところがあるのかもしれませんが、生活の細かいところに頓着しないといいますか……何と申し上げたらいいのかしら、よくいえば天真爛漫、悪くいえば大雑把でいい加減。食べ物も身につけるものも最低限あればいい、なければないで、まあどうにかなるさといった調子で、世間体が悪いだのなんだのという考えには至らない人でした。父のこういう楽天的な性格も、それまで何不自由ない生活をしてきたからこそなのでしょうけど、格式張った家でお嬢様として育った誇り高い母とは、このへんが最初から合っていなかったのではないかと思います。

 時々考えますのよ。あの時家長であった祖父が急死しなければ、父は東京で本格的に詩作の道に邁進していたでしょう。そうしたらどうなっていたかしら? そのまま順調に成功したかもしれないし、鳴かず飛ばずのまま何年も浪費したかもしれない。母との結婚は元々決まっていたことでしたが、時期も、有り様も変わっていたでしょうね……そうすると、今此処にいる私は生まれていなかったかもしれない。何より父が苦労知らずの坊ちゃんのままでいたら、あのような歌も生まれなかったかもしれない。そう考えるとつくづく、人生って不思議なものですわね。

 ごめんなさいね、話がそれました。……そう、北海道。父は何かと窮屈な田舎の家が嫌になって飛び出して、北の地でしばらく新聞記者として働いておりましたの。まだ小さかった兄は母の実家に預けて、母も一緒に。ええ、夫婦仲は良かったらしいのよ、この頃はまだ。
 そこで妊娠して、出産して……そう、たった八日。昔のことですからね、仮住まいですから暖房設備も知れたものだし、お医者様や薬も今とは段違い。何てことない病気でも、昔は生き延びられない子が多かったの……母はそのときかなり父を恨んだらしいのよ。こんな寒いところに連れてきて子供を産ませて、実家にいれば亡くなることはなかったのにって。ましてや初めての女の子でしたからね。
 一度だけ、私も行ったことがあるのよ……お墓参りにね。父と妹と私の三人で、たしか四月の終わり頃。よく晴れた日でしたけど、これが寒いのよとても。風も強くてね。ただ景色はとっても綺麗でした、海も見えてね。お墓がどんなだったのか、どうお参りをしたのかは何故かさっぱり忘れてしまって……蝋燭やお線香は無理だったと思うのね、あの風では。

 ところであなた、お子さんは? まあ三人。それはいいわね、子供は宝ものよ、お幸せね。

 私、子も孫もいる今だからわかるような気がいたしますの。母は、誰よりも自分自身を許せなかった。自分を責めて、責めぬいてそれでも足りなくて、やり場のない感情を父にぶつけることで自分を保つしかなかった。父には仕事や詩作という逃げ道がありましたから、一人どんどん立ち直っていくようにも見えたのでしょうね。自分だけ辛く苦しい場所に置いてけぼりにされたような気になったのかもしれません。
 父がお妾さんをつくって……これもあの時代特に珍しくはなかったけれど……お互いに心が離れて別れてしまったのは、この悲しい出来事が長く尾を引いていたからではないかしら。
 離縁したあと、私達姉妹を引き取ったのは父でした。色々と事情もあってのことですが、そもそも私達はどちらかというと父のほうに懐いておりましてね。決して裕福とはいえませんでしたが、笑ってばかりの楽しい毎日でしたよ。
 父が再婚したのは、私たちが母の実家へと移り住んで間もなくのことです。直後から童謡を作りはじめ、少しずつ世間にも認められていきました。不思議なもので、婚姻関係が無くなってからの方が両家の関係は良好となり、終生交流が絶えることはありませんでした。

 そうそう、あのお墓参り。あのとき父は、私と妹に「しゃぼんだま」を歌ってくれと言ったのよ。私達は子供とはいえもう思春期に差しかかっていましたから、イヤだと断ったのですが、父はききませんでした。
 いえ、怒ったのではないのですよ。私達が今まで見たこともない、寂しそうな……でも何かを強く決意しているような、なんとも申し上げられない顔をしておりましたの。
 ええ、歌いました。誰もいなかったとはいえ気恥ずかしかったのですが、歌い出したら何か、そのうたがその場所にぴたりとはまるような、そんな気がしてきて、妹と二人風の音に負けないような大きな声で歌いましたよ。父は……どうだったかしら。笑っていたのか、それとも。ごめんなさい、覚えていませんわ。
 帰るころには、普段どおりの明るく快活な父に戻っておりました。

 長ながとお話してしまって、退屈されてないかしら。……嬉しいわ、そう言っていただけて。もう一杯、お紅茶いかが?

 ええ、そうね。そうおっしゃるなら……もう一つだけ。私の勝手な思いを言わせていただいてもよろしくて?
 あのとき……父が「しゃぼんだま」を歌ってくれと頼んできたとき、幼くして亡くなった姉への思いの深さは子供の私達にもよく理解できたのですが、それと同時に、
「おとうさまは、うたをつくるために私達をひきとったのかしら」
 なんて思ってしまいましたの。私達とおしゃべりしたり遊んだりしてくれるのも、そのためなんじゃないか、って。 そんなことを思ったのはそのときが最初で最後でしたから、いまだに忘れられないのですよ。
 たくさんの人の心を打つようなものを創りだすお仕事というのは、ある意味因果なものなのでしょうね。

 いえいえ、御礼を言うのは私のほう。本当に熱心に聴いていただいてとても嬉しかったわ。ありがとう。またいつでも遊びにいらしてね、自分のご実家だと思って。ええ、ほんとうに、いつでも。
 まあ、なんて綺麗な夕焼け。こんな時間までお引き留めしてごめんなさいね。どうぞ道中お気をつけて。それでは、また。
<つづく>
参考:
野口雨情記念 湯元温泉 童謡館
北茨城市歴史民俗資料館 野口雨情記念館
※史実、野口雨情の生涯とその歌曲をモチーフにした創作です。

0 件のコメント:

コメントを投稿