2015年12月22日火曜日

夕顔 ~右近ひとり語り~ その三

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「ねえ、ちょっとその辺の近いところで、気楽に夜を明かしてみない? ここだとどうも落ち着かなくてね」

という光君のご提案に

「あら、いくらなんでも急すぎませんか」

 お方さまはいつものように、賛成も反対も致しません。
 私たち女房も、お方さまへのひとかたならぬご愛情をお傍近くで見知っておりましたから、少々無茶なご提案に不安を感じながらも、ただ男君を信じて従うほかはありませんでした。

 夜明けも近づいてまいりました。
 鶏の声はまだでしたが、御嶽精進でしょうか、立ち座りも大儀そうな老人が礼拝するらしき声が聞こえてきました。

「朝の露のようにはかない世なのに、何をこれ以上欲張って祈るのだろうね」

と仰る光の君の耳に

「南無当来導師、弥勒菩薩よお救いくださいませ」

と一心に祈る声が届きます。

「おお、聞こえたかい?あのご老人も、現世だけとは思っていないようだよ」

 光君はさも感心したかのように、大げさなことを仰います。

「優婆塞……出家せず在俗のまま修行している僧のように勤行するあの老人にならい、来世もこうして愛しあう約束をやぶらずいてください」

「前世の縁の浅さが身につまされていますので
ましてそのような先のことなどはかりかねますわ」

 夕顔のお方さまもさすがに困惑していらっしゃいました。

 山の端に隠れることをためらう月のように、お方さまは出し抜けに知らない場所に出かけることを渋っておられました。光君さまが説得なさるうち、月はにわかに雲に隠れ、明けゆく空が実にうつくしゅうございました。
 辺りが明るくなって人目に触れる前にと、六条から出立なさるときのように素早く車を出し、お方さまを軽々と乗せられましたので、わたくしも同乗させていただきました。

 程なくなにがしの院と申される場所に着きまして、管理人の出てくるのを待ちました。荒れた門を隠すように、丈高く見上げるほどに生い茂った草、中はたとえようもなく薄暗うございました。霧も深く、露めいた空気の中、車の簾を上げ放しておられましたので、君のお袖も大層濡れてしまわれました。

「おお、うっかりしていた。こんな夜歩きはしたことがないからね。いろいろ気をつけなくてはいけないね

 昔の人もこのように恋の道に迷ったのだろうか
 私はまだ知らない明け方の道だ

貴女は慣れてるのかな?」

 お方さまは恥らいつつ、

「山の端をどことも知らないで随っていく月は
 途中で光が消えてしまうのではないでしょうか

心細いものでございます」

と、家が建て込んで賑やかな五条の通りとあまりに違う様子に、しきりと怯えてらっしゃいました。

 お車を門の内に入れさせた後も、西の面に部屋をしつらえる間、 高欄に轅(ながえ)を立てかけ待っておりました。管理人があちらこちらと走り回り、賓客を迎える用意におおわらわでございます。わたくしは何となく華やいだ気持ちになりまして、過ぎ去りし昔のことなど、ひそかに思い浮かべておりました。
 ほのかに辺りの様子が見えて来ました頃、やっと車を下りることになりました。お部屋は急ごしらえではありましたが、小奇麗にしつらえてありました。

「お供に誰も連れていらっしゃらないなんて……不都合なことではございませんか?」

 管理人の一人は光の君とも面識がおありのようで、近寄って

「誰か、しかるべきかたをお呼びするべきでは?」

と申し上げますのに、君は

「わざと人の来ないような隠れ家を探してきたんだ。これ以上他の人間に漏らしてはならないぞ」

と口止めをなさるのです。
 お粥など急いで作らせたものの、給仕をする者が揃いません。慣れない旅寝でございます、光の君と夕顔のお方さまのお二人は、落ち着くまで「息長川」よりいついつまでも、と睦みあうほかには何もお出来になりませんでした。




 日が高くなった頃に起きられて、光君手づから格子を上げられました。庭はひどく荒れ果てていて、人の気配もなく広々と見渡され、木立は薄気味悪いくらい鬱蒼と生い茂っておりました。すぐ近くにある草木は特に見所もなく、すっかり秋の野となって、池も水草に埋もれ、なんともすさまじく恐ろしげな風景でございました。小さな別棟には人も住んでいるようでしたが、こちらからは離れておりました。

「なんとも気味の悪い場所だね。まあ、鬼の類も私なら見逃してくれるだろうが」

 光の君は笑って仰いました。
 この期に及んで、まだ顔を隠されていましたので、お方さまもさすがにあんまりだと思ってらっしゃるようでした。光君も

「確かに、これほど深い仲になったのに顔を見せないというのも常識はずれか」

とお思いになったのか、

「夕方の露を待って花開き顔をみせるのは
道で逢ったご縁からなのですよ
露の光はいかがです?」

と詠みかけられました。露の光、つまり自分は光の君だということを暗に白状なさった形です。
 お方さまは流し目に見やって、かすかな声で返されました。

「光り輝くと見えました夕顔の上の露は
黄昏時の見間違いでしたかしら? わたくしは最初からお見通しでしたわ」

 お方さまを抱き寄せる光君。この上なく仲睦まじい、幸せそうなお二人、場所が場所だけに、まして不吉とまでに思えるほどでございました。

「いつまでも隠してらっしゃるなんてひどいですわ。もうはっきりと名のられませ。どなたか分からない方とこうしているなんて、気味の悪いことですわ」

「私は海人の子なのだよ、名のるほどのものでもない」

 そんなふうに戯れに言い争われたり、睦みあわれたりしながら、一日が過ぎてまいりました。

 暫くしますと、何処から探しあてたのか、惟光の朝臣が果物やお菓子などを持って参上されました。あの通り気さくな方ですから、わたくしは思わず、こんな場所に連れ出されたこと、いまだに身分をお明かしにならないことなどいろいろ愚痴ってしまいました。

「まあまあ、でもこんなことをやらかすくらい、余程あなたのお方さまにご執心なんだよ」

「それはそうなんですけど」

「しかし惜しかったなあ。そんなにいい女だったのなら、俺がもらってしまえばよかった」

 呆れたことに、惟光さまは、自分が心を広くもって、わが主人にお方さまを譲ってやったのだ、などと不遜なことを思ってらしたのです。
  しかしそんな無駄話をしていたことで、光君の元に直接惟光さまが行くことはありませんでした。それで何がどう変わったわけでもないのでしょうが……わたくしが今でも悔やんでおりますことのひとつでございます。

 日が西に傾いて参りました。また、夜がやって来ようとしております。

 たとえようもなく静かな夕べの空を眺めながら、薄気味悪い部屋の奥は見ないようにして、端の簾を上げ寄り添うおふたり。
 夕日に照らされたお互いの顔を見交わしてらっしゃるうちに少しずつお方さまも落ち着かれていきましたが、光の君から片時も離れず、頑是ない子どものように、少しのことにも怯えておられます。
 早い時間に格子を下ろして、灯りをつけたお部屋で

「こんなに深い仲となりましたのに、まだ何か隠してらっしゃるなんて」

という恨み言がかすかに聞こえます。

 光の君の居所は、内裏におられる帝をはじめ、どなたもご存知ありませんでしたから、参内していらっしゃらないのを、さぞかし不審に思われ探しまわっておられたことでしょう。
 あの、六条の御方さまはいったいどうお考えになっていたことか……。このようなお振る舞いは、六条ではけっして許されないことでしたから。

 夕顔のお方さまのように、ただ無心に、そこにいらっしゃるだけでいとおしい女性と、他の誰より高貴で聡明であるがゆえに気位高く、差し向かいでいると何か気詰まりな女性。
 光君がつい心の中でお二人を引き比べてしまわれたとしても、いたし方のないことでございました。


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