おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

「アウシュヴィッツ収容所」

2024年9月4日  2024年9月4日 

  なんとヘス自身の手記ということで読んでみた。ヘスは1947年2月にこの手記を書き残し、4月にアウシュヴィッツ収容所にて絞首刑に処された。

「アウシュヴィッツ収容所」ルドルフ・ヘス

 この本をどう受け取ったらいいのか、どう考えていいのかわからないので思いついたことをダラダラと順不同で並べてみる(つまりいつもと大して変わらない←)。

 まずは、すごく「真面目」な人だとは思った。そうでないと収監中にこの長さの手記なんぞかけない(これでも全部ではないらしい)。論理的思考もできているし、人としての情も持ち合わせている。おそらくは自身でも、収容所の長として「大量虐殺を実行」するまでに至った道筋を振り返りたかったんじゃなかろうか。何故自分は今ここにいて、罪に問われる羽目になっているのか、その答えを知るために。

 しかし、この試みはあまりうまくいったようには見えなかった。末尾に語った文章はwikiにも載ってるのでここに引用する:

「軍人として名誉ある戦死を許された戦友たちが私にはうらやましい。私はそれとは知らず第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの歯車にされてしまった。その機械もすでに壊されてエンジンは停止した。だが私はそれと運命を共にせねばならない。世界がそれを望んでいるからだ。」「世人は冷然として私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。けだし(蓋し=思うに)大衆にとってアウシュヴィッツ司令官はそのような者としてしか想像されないからだ。彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心を持つ一人の人間だったということを。彼もまた悪人ではなかったということを。」

wiki「ルドルフ・フェルディナント・ヘス」より

 何がモヤモヤしたって、この末尾のまとめの文章に最もモヤモヤした。前半の他人事感、後半の言い訳感。何のポエムだ?ある意味正直な感想であり、これも一面の真実ではあるんだろうけど。

 確かに体験したことであっても、後になって語られた時・文字に落とされた時、まったく同じものにはなり得ない。それはもう絶対にそうなる。ヘスはかなり客観的にものを見られる人ではある、と感じたけど、いやそれ本当か?本当にその時そう思ったか?と疑われるような箇所は結構あった。「単なる記憶違い」とも言い切れない、意図的か無意識か、またはその両方か。「こういう人間的な感情を失わずにいた自分」を後付けに作ってんじゃないの?とも思った。翻訳した文章でもこうだから、母国語としてそのまま読める人ならば尚更感じるものはあったろう。一番語らねばならない部分には触れていない気がする。おそらくそこに突っ込んだら、彼自身が崩壊してしまうんだろう。歪んでしまってる自分を直視するのは死ぬよりおそろしいことだったのかもしれない。

 以前観た「関心領域」はヘスとその家族を描いた映画だが、いま再視聴したらまた見え方が変わる気がする。あの映画の中でもヘスは自らの深淵を覗かない。そこに存在してるのに、見えているのに「なんでもないもの」としてやり過ごそうとしている。人倫に悖る行為と理解していながらも、滅すべき民族だから・永遠の仇敵だから仕方ない!と常に打ち消し続けていた「ヒトラーのための虐殺会議」の高官たちと同じく。

 ナチス政権があちこちに作った収容所ははなから不備が多かったうえに無計画に人を送り込んだせいで、その環境も悪化の一途をたどったらしい。物理的に収容しきれない、当然食べ物も足りない、移動させようにもどこも満杯。女子供病人老人などの「労働に適さない人間」は大量で、いちいち銃殺していたのでは非効率すぎる上に執行する者の精神がもたない。そこで「大人数をいっぺんに処理する必要が出てきた」。「劣悪な環境で暑さ寒さに苦しみ、飢えて、病気に罹って、衰弱して死ぬより、むしろ楽でマシなのではないか?よほど慈悲深いのでは?」とでも言いたげな。内容がこれでなければ、完全に「上司の無体な命令に人も物資の補充もなく無理を強いられる中間管理職」の悲哀といった趣だ。

 書いてあることをそのまま受け取るならば、ヘスはユダヤ人を「人間ではない」とは全く思っていない。むしろ人間だからこそその「管理」に困っている様子が窺える。ユダヤ人を家族愛・同族愛の強い民族だと評価しており、ガス室に送り込まれる直前まで子を優しくあやす母の姿に感動したり、毅然と運命に立ち向かう宗教者を讃えたりすらしている。とはいえヘスは命令通り「真面目に」「仕事」をキッチリとこなすのだ。真面目とは一体何だろう?

「真面目な」ヘスは、現場を視察しながら何も対処しようとしない高官に批判的な目を向けながら、逆らうこともサボタージュすることもなく、様々な「工夫」で切り抜けようと努力する。しかし努力して「効率化」をはかればはかるほど、送り込まれる人も増えていく悪循環。どうして収容する場所も「処理する」キャパもとっくに超えているのに、どんどん人を捕まえて送り込むのか。何もかもが足りない。高い理想をかかげて君臨する総統をトップに頂く組織としてはあまりに杜撰でお粗末で愚かではないか。ヘスの「真面目さ」は一体何を達成するための真面目なのか。まさに「愚かな働き者」そのものでは?

 あとこれはこの本で初めて知ったんだが、戦況悪化で閉鎖が決まったアウシュヴィッツ収容所を、赤十字が管理するという申し出を断って収容者の殆どを連れ出して逃避行、行くあてもなく彷徨って更なる多くの死者を出した、という話。当時のドイツ赤十字はナチス政権の一部だったからこの赤十字とは国際機関の方なのだろうが(此方もナチスの所業を事実上黙認)、ここでもヘスの「真面目」が如何なく発揮される。任せてサッサと自分たちだけ逃げた方がなんぼかマシな局面だったんじゃなかろうか。それこそ「管理」なんぞし切れないのに。「業務を放棄して逃亡」という「汚名」を被るのが嫌だった?「業務を遂行できないダメな自分」はプライドが許さなかった?その理由は言及されていない。

 とりとめがないのでこの辺でやめる。 

「当時の自分はこれが精いっぱい」「だったらどうすればよかった?」と開き直りともとれる言葉を残して去ったヘスだが、確かに「絶対悪」ではないかもしれない。確かに人間ではある。ただ、酷く愚かで歪んだ人間。「到底実現不可能な命令」に諾々と従い「工夫」をし、敗色濃厚になっても状況を直視せず「命令」に縋り、大勢を死なせた無責任な愚か者。なるほどこれが「凡庸な悪」ということか、と腑に落ちた。

 愚かさ自体は罪ではないけれど、おかしな方向に進んでしまう要因にはなる。学業が優秀な人でも仕事が良く出来る人でもありうる。何でも鵜呑みにせず、拘り過ぎず、「真面目」に思考停止せず、バランスよく生きていきたい。いつまでも柔らか婆でいられますように自分。

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